Yirmiikinci Sözün Birinci Makamı
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Altı Küçük Söz
(Japonca Tercümeleri)
ベディウッザマン サイド ヌルシーとは
ベディウッザマン サイド ヌルシー (Bediuzzaman Said Nursi)は1873年、トルコ東部にあるビトリス市のヌルス村に生まれ、1960 年にウルファ市でこ の世を去った。
彼は14という才の若さで当時の宗教学校(medrese)を終了したが、後に無類の記憶力と膨大な著作で有名になった。イスラムの神学(Kelam)研究の復活後、クルアーンとイスラムへの批判に答えるために、当時の宗教学者達と異なり、自然科学と数学と哲学など、ほとんどの知識を単独で勉強し、身につけた。イスラム宣教のために生涯を捧げた彼に対して「時代の驚異(ベディウッザマン)」の名前が与えられている。
彼はイスラム世界の衰退の原因はまさにその信仰(イーマン)の土台が弱まっているためであると確信し、唯物論者または無神論者が科学の名においてイスラム批判を行うことに対し緊急な信仰復活の必要性を強調した。
1925年に彼はトルコの西部へ流罪となった。彼は死ぬまで追放、投獄、いやがらせと迫害を受けた。これらの困難な時代にリサレイ・ヌールが執筆され、トルコ全体に普及したのであった。その中で彼は信仰の基本や近代的な人間のあり方についてクルアーンの言葉を通じて説明している。
彼の方法は信仰と不信仰の両方を分析すること、そしてクルアーンによって真理を研究に提示することであった。神の存在と唯一性、預言者の性質、復活等のような信仰の真実の全てを合理的に説明した。
彼は容易に理解される物語、比較、説明と論証によって真理を掲示した。宗教の真実は近代的な科学の調査結果と互換性がある。それらの調査結果の唯物論的な 解釈は理性がなく、愚かしいものである。彼はリサレイ・ヌールで科学が宇宙の動きについての発見と宗教の真理を確証し、補強していると証明した。
リサレイ・ヌールの重要性はそれを通して彼はトルコで、歴史の最も暗い時代にイスラムの信仰の復活と維持に重大な役割を演じたのである。
リサレイ・ヌールは近代的な人間の考え方に合わせて書かれている。イスラムか否かにかかわらず、近代的な人間の考え方は唯物論の哲学をしっかりと携えている。これがもとらす疑いと質問の全てをリサレイ・ヌールは答えている。
リサレイ・ヌールは近代的な人間の頭の中にある「なぜ」で始まる全ての質問に答える。この世界でも来世でも幸せになるためには、まず神の存在を知り、そし て神を信じるべきだとリサレイ・ヌールが宇宙と人間の創造に関する真の目的を説明しながら証明している。また、同じく不信仰が人間にもたらす耐え難い痛み とみじめさをも指摘している。
リサレイ・ヌール収集は多くの言葉に翻訳された。これは日本語で最初に翻訳された本である。目的は不信者を納得させることではなく、信者を啓蒙することである。
第22のことば
(第1部)
―アッラーの存在を快適な寓話で12のプルーフで示す
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
وَيَضْرِبُ اللهُ اْلاَمْثَالَ لِلنَّاسِ لَعَلَّهُمْ يَتَذَكَّرُونَ { [1]
وَ تِلْكَ اْلاَمْثَالُ نَضْرِبُهَا لِلنَّاسِ لَعَلَّهُمْ يَتَفَكَّرُونَ { [2]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
アッラーは人々のために比喩(ひゆ)をあげられる。それは彼らに反省させるためである。
こんな例えを、我は人間に示すのは、おそらく彼らは熟考するであろうと思うからである。
ある日二人の男が尋常でない影響を受けて気を失ってしまった。目が覚めると不思議な世界に連れて来られたのに気づいた。その世界はすばらしく完璧ともいえ る秩序で創られている、国、町あるいは宮殿のようだった。彼らは大変驚きあたりを見回した。そこは広大な世界で、整然とした国、申し分のない町であり、少 しの別の見方をすれば、雄大な世界をすべて取りこんだ一つの宮殿ともいえた。
この不思議な世界を歩き回ってみると、色々な生き物がいることに気付いた。その生き物はある方法で話をしているのだが、この2人には彼らの言葉はわからず、ただ彼らの様子から、彼らが大切な仕事、重大な義務を果たしていることは2人にも理解できた。
2人の1人が友人に言うには、「この不思議世界にはすべてを取り計らっている何者かが存在するはずです。この申し分のないすばらしい町の所有者、見事に作 られた宮殿の建築家がいるはずです。私達は努力しなければいけません。そうすれば、その主を知り認められるにちがいありません。というのはここに私達を連 れてきたのは彼だからです。彼の存在を認めなければ、誰が私達を救ってくれるのでしょうか?彼らの言葉もわからず、又私達に耳を傾けない無力な生き物に何 か望むことができますか?広大な世界を、国、町及び宮殿を形づくり、端から端まで、すばらしく装飾したその主は、私達やここのきた人々に何か望んでいるこ とがあるはずです。その主を知り、存在を認めなければいけません。そして何を望んでいるのかを知る必要があります。」
もう1人の男は「俺はそれを信じない、お前が話すような主が存在していること、またはこの全世界を一人で制御するということは無理だ.」と言った。
「私達がその主の存在を認めず、彼に無関心であり続けても私達には何の益もありません。でも、その主を認めないことが害をもたらすなら、莫大な害となるこ とでしょう。もし、認める努力をするなら、それほど苦難はないでしょうが、報奨は多大です。ですから、彼に無関心でありつづけることは賢いことではありま せん。」と友人は返答した。
思慮ない人が、「俺はそういうことを考えない方よく楽しめると思う。俺には理解しづらいことを考える気はない。ここで全ての事は偶然で混沌としている。あれやこれやと頭を痛めて何の役に立つのか。」といった。
すると、思慮深い友人が返答した。「君のこの頑固さは私や多くの人達をこまらせるでしょう。独りの無作法者のせいで、町全体が壊されることがよくあることです。」
又、思慮のない友人が振向いて「この全世界の唯一の支配者、唯一の制御者、唯一の創造主が存在していると確実に証明してくれ。さもなければ、俺のことほっといてくれ」といった。
思慮深い友人が答えた。「あなたの頑固さは気違いじみています。その頑固さのために、私達を、いやおそらく国をも深い悲しみの陥れ、害を齎すことでしょう。ですから、私は宮殿のようなこの世界、及び、町のような国には唯一の創造主が存在していることを証明する12の プルーフをあなたに示します。全てを動かして管理しているのはその主のみです。その主には不足ということがなく、我々に見えないその主は、我々全てを見、 我々の言葉を聞きます。その主の作品は全て、奇跡であり感嘆すべきものです。我々が見た言語の分からないこの生き物はすべてその主のために働く人々で す。」
第1の証明
君の周りをよく見なさい。全ての物事の中に隠れたる手が機能している。10グラムの力さえ出せないものが[3]何百トンもの重荷を上げ、何ら意識を持たないもの[4]が、非常に賢明で、目的のある事を行う。これらは自らそれ自身で動いているのではなく、隠れた力の所有者が動かしているということを意味する。もしこれらが自ら動いているとすればここで見られるどの行為も全くの奇跡でなければならないが、これは明らかに迷信である。
第2の証明
ほら、来て、この平野や平原を飾っているものを注意深く見なさい。それぞれが隠れたる創造主を物語っている。すべてが、まるで紋章、または刻印のように、創造主を示している。ほら、目の前にあるこの綿花の種[5]から豊富な布、高級リンネル製品、花で飾られた品々、たくさんのおいしいお菓子ができた。何千人という人がその服を着て、そのお菓子をお腹いっぱい食べても尽きるということはない。そして、見なさい!彼は一握りの鉄、水、土、石炭、銅、銀、及び、金から生物[6]を造る。このように被造物である全ての物はその創造主の力で支配され、彼の望みに従順に従う。
第3の証明
こちらに来て、これらの動く芸術的作品[7]を見なさい。それぞれはまるでこの巨大な宮殿の縮小模型のように作られている。この宮殿にある全てのものがその作品の中にある。
いったい、この宮殿の主の他に誰がごく小さな我々の中にこの巨大な宮殿を収められるのだろうか。そして、小さな箱ほどの大きさのものの中に驚くべきことに 全宮殿を含んでいるにもかかわらず、これらは無用であり無目的、またはただの偶然によることがありえるだろうか。
つまり、どんなに巧みに作られた仕掛けも、あの隠れたる主の紋章、刻印、あるいはさらに、使者、または宣言のようなものである。言葉ではない言語を通して「我々を創造したのは、この世界を容易に、同様に創造できる主なのだ」と語っている。
第4の証明
おぉ私の頑固な友人! 更に珍しいものを君に示そう。見なさい!この場所における全てのものは変化している。ひとつの状態で存続することはまったくない。これら生命を持たず、感覚もないものが、他をすっかり支配できるよう形作られている。まるで一つのものがその他を完全に支配しているかのようだ。たとえばこの機械[8]を見なさい。まるでそのように指示しているかのように、その装飾及び働きに必要な全ての物質が彼方からそれを目指してやって来る。あちらを見なさい。あの生命のない物質[9]は、まるで手招きしているかのようだ。それは自分より大きな物体を自分のために働かせ、あるいは自分のために貢献させる。
同じ方法で更なる類推をしてみなさい。もしその隠れたる主の存在を受け入れなければ、石や土や動物など、全てのものは、主の所有する全ての技術や芸術をそ れ自身に帰さなければならない。驚異的な機能を持つ一つの存在の代りに何千万というものを受け入れなければならなくなる。そして、それらは双方共に対立し あい、または類似しあい、あるいは独立した存在であるから、そのために混乱を引き起こす。二人の町長がいる村、二人の市長がいる市、二人の主がいる国、つまり二人の指導者が存在する場所にば混乱が起きて無秩序になる。従って、無限の絶対的支配者を考えてみたらどうだろうか。
第5の証明
私の疑い深い友人よ! この広大な宮殿に刻まれたものを注意深く見なさい。この町の全ての装飾と秩序を見、そして、この世界における全ての芸術作品について熟考しなさい。
見なさい。これらは無限の奇跡、及び、技術を所有する隠れたる主が為されたものでなく、盲目的な偶然、聞く耳を持たない自然、及び、非意識的な原因によるとしたら、この土地の全ての石や植物は、まったく驚くべきことに、何百万もの芸術作品を1つの銘文に入れ、一つの文字の中に1,000冊の本を書くことができることになる。なぜなら、例えばこれらの石[10]の 上に刻まれたものを見なさい。各々の石に、宮殿の全体の記録、及び、町を統治するルール、国全体を組織するための方策が記載されている。これらの刻印を作 ることは一つの世界を作るのと同様である。そのため、一つ一つの碑文、芸術作品は、隠れたる主の宣言、及び、紋章である。
書き手のいない手紙は存在しない。どんな芸術も、その製作者を示さないものはない。一つの文字に巨大な本を書き、千の奇跡を1つの奇跡に顕わす主は、その作品によって知られるのではないか。
第6の証明
さぁ、この広い平原[11]に出て行こう。周囲全てを見ることができるように、あそこの高い山の頂上に登ろう。全てがよく見えるようにこの双眼鏡を使おう。この奇妙な世界では想像もできない奇妙なことが毎時起こっているのだから。
見なさい!これらの山、平原、及び、町は、急激に変化している。何百万という物質が他方の中へと、秩序を保ちつつ変化している。何百万もの様々な布が他方の中で織られるような、最も驚くべき変化が行なわれている。見なさい!我々がよく知っている花々は消滅して、代わりに、同じ本質を持つが、形が異なる別のものが整然としたやり方で生じている。まるで、この平原が1枚の紙で、その中に、全く簡単にそして、過失も欠陥もなしに、数十万の異なる本が書かれているかのようである。
巧みに組み合わせられたこの際限のない発生がそれ自身で起こるということは不可能である、というのは言うまでもない。現象自体よりむしろそれらを作った芸術家を示している。更に、その芸術家にとって、難しいことは何一つない。彼にとって1000冊の本を書くことは1字を書くように容易なことである。
君の周囲を見回しなさい。その芸術家は全てを完全な英知によって、最も適切なところに配置せられる。全ての人間や動物の欲求が満足するほどの好意を惜しみ なく浴びせる。その芸術家は、気前よく卓をととのえ、全ての人間、動物に、それぞれに適した恩恵のご馳走を与える。これらのことが偶然に起因する、または 無目的、または無駄、または多くのものがそれに手を下している、またはそれらの創造主は全てが可能なわけではない、または全てはその芸術家によって支配さ れてない、このようなことがありえるだろうか。友よ。君が直面している事実に対して弁解をさがしてみなさい。
第7の証明
友人よ!今、この驚くべき世界にあるの物がどんなに素晴らしく相互的に行動していることに注目してみよう。見なさい!この世界で、仕事は常に実行されつつあり、そして、全体的な革命は切れなく発生している。全ての岩や木等は各々が意志によって行動していたかのように世界中でユニバーサルなシステムに完全に適合している。遠いものは、急いで相互を支援する。
見て。奇異なキャラバン[12]が現れた。それにおける輸送車は、木や植物と類似する。各々は頭の上に供給のトレイを持っている。それらはあちらで待っている様々な動物のための食べ物だ。
見て。このドームの強力な電灯[13]は、光によってそれらを供給して熟させる。それらの食物が目に見えない援助によって、ひも[14]に付属している。
そして、このサイドで、これらの弱い無力の小さな動物を見なさい。それらの口の前にいくつかの小さいスプリンクラー[15]が付属され、生計を立てている。これに対してその動物たちは口をただ圧迫(接着)することは十分である。
つまり、世界中の全てのものがお互の必要性を知って、義務を完全に果たせるために協力して助け合う。
このように、全てのこれらのものは、2プラス2が4に 等しいのと同様に、全てはこの驚くべき宮殿の所有者に支配されている、そして全ては、彼の命令の下にある軍人のように行動している、全ては彼の力によって 働く、全ては彼の英知によって整理される、全ては彼の同情を経てその他の支援に急がせられる、と決定的に表示する。友人よ!これに直面して何かを言えるの!
第8の証明
私の魂のように自分が理性的だと思う友達よ!あなたは、この壮大な宮殿の所有者を認めようと望まない。しかし、全ては、彼を指し示す、彼を証明する。あなたは、いかに全てのこれらのものの証言を否定するのか。それでは、宮殿も世界も国も町も否定し、消滅しなさい。或いは、意識を取り戻し私の言うことを聞きなさい!
見て。この宮殿の中に一定のエレメントや、ミネラル[16]が ある。この宮殿に現れる全ては、それらのエレメントで作られる。そのエレメントやミネラルがもし誰かの財産であれば、それらから作られた全ては同じく彼の ものであろう。それらの畑をもし誰かが所有していれば、それらの作物は、同様に彼のものであろう。海はもし誰かのであれば、その中のものは、同じく全て彼 のものであろう。
見なさい。あちらこちらに飾られたこれらの生地が織られた材料は、1つの物質である。明らかに物質を持って来る、それの準備をする、そしてそれをひもにするのは唯一の一人であろう。なぜなら、同伴者の参加を可能にしないであろう。そのように、全ての巧みに織られたものは、彼だけのものだろう。
そして、見なさい! 製造され物の全ての種類は、宮殿のどこにも見られる。同じ瞬間に、同じ方法で、共に作られる。それらが同じ命令による、同じ行動をすることを意味する。
結局、巧みに作られたこれらのものの各々は、その隠されたものの宣言、スタンプ、マーク、装飾のようであって、彼を指し示す。まるで、各いくらか咲いてい る花、各器用な機械、各甘いひと口分は、本質的にこう言う:「私が、もし、だれかの芸術作品であるなら、私のような物を宮殿のどこでも作っているなら、彼 のものだ。つまり、宮殿そのものもかれのものだ。」
友人よ!この国のような壮大な宮殿に唯一性のサイン、統一性の印がある。なぜなら、ものは多数であるのに、どこにも見られるのに、類似していることから一種類だと意味する。この統一性は唯一な支配者、所有者、芸術家にされたということを必要とする。
更に、これを注意深く見なさい。目に見えないところから茂みの糸が出ている。何千もの糸[ストリング]が それから出て。糸の先端を見なさい。ダイヤモンド、装飾、好意、贈物は、それぞれ付随して、誰にも適当なプレゼントは与えられている。この精神異常の動作 を行う主を認めようとしない、感謝しようとしないことはどんなにわるいことか。もしその主の存在を認めなければ、「これらの糸は、先についているダイヤモ ンドや贈物を自ら作って、他物に提供する」ということになる。そして、各糸が主のような動作ができる機能を持たなければならない。一方、目に見えない手 は、我々の目の前に糸を作って、贈物をそれらに接続している。従って、この宮殿の全てが自らよりむしろその主を指している。あなたが主を認めなければこの 全ての奇跡的な動作を否定することによって、動物よりも100倍低くなることだろ。
第9の証明
私の無分別な友人よ!あ なたは、この宮殿の所有者を認めないし、認めることも望まない。なぜなら、あなたが彼の存在を狭い脳によってありそうもないと思うからだ。ところが、真の 困難、辛苦、トラブルは、彼を認めないところから始まる。もし、彼の存在を認めたら、宮殿の全て、またはこの世界がまるで1つ であるかのように作成は容易になる。そして、我々の周辺にあるたくさんのものは値段が安くて豊かになる。もし彼の存在を認めなければ、全てのものの作成は この宮殿のと同じくらい難しくなってしまう。ということは、全てが、宮殿の巧みさと同様である。そうなると、多量も豊かさも無理になってものの値段が非常 高くなり、これらもののうちの1つも、我々だけでなく、誰の手にも入らなくなる。例えば、この糸に絡まった甘い缶詰の小箱の[17]を見なさい。それがその隠れた主の台所で作られたのでなければ、今はそれを100円で買っているが、1万円払っても買わなかっただろう。
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さあ、実のなるこの木を見なさい。木の全体は1つの根によって生息している。何千もの実がなるのは、1つの実がなるのと同じほど容易である。もし全ての実が別々の根から供給されるとすれば各実は木のように生えるにくくなる。
又、ある軍隊の全ての軍人に必要な装備が一ヶ所の工場で作られるとすればどんなに容易か分かる。しかし、各軍人の装備が異なるところで作られるとすれば軍人一人のためにたくさんの工場が必要となってしまう。
これらの2例と同様に、この秩序ある宮殿、この優れた町、発展したこの国、この壮大な世界にある、全てのものを創造している存在が唯一だとすれば、それは 非常に容易になって、今見ているように、大変安く、豊富で、惜しみなく与えることができる理由となる。他の場合は、各々は非常に高価になって、いくら払っ ても一つも手入れることができないだろう。
第10の証明
少し正気になった友人よ! 我々は、ここに今15日間[18]滞在している。我々がこの世界の規則を知らず、その世界の主を認めなければ、我々は処罰を受けるに値するであろう。この15日 間は我々にとって気づくための期間であったので、もういいわけはできない。我々は自由奔放にはできない。我々はこれらの繊細なバランスのとれた微かで、巧 みに作られた有益な生物のなかで動物のように歩き回り、それらを台無しにすることができない。この国の威厳ある主のペナルティは恐ろしい。彼がどんなに強 力で、威厳があるか理解するために、彼がこの広大な世界をまるで1つの宮殿のように飾り、何もミスしないで家のように治めていることを見て分かるだろう。 彼がこの世界を完全な英知によって絶え間なく満たし、それからそれを空にするのを見なさい。食卓[19]を広げ多種多様の食べ物を作り、食物の種類を交互にもたらし、必要としているものに与える。その後、それらを取り除く。目に見えない手は1つを取り除き、その代わりに別のものをもたらす。あなたが頭を使っていれば、その中で畏敬の念を起こさせる権威が無限に気前の良く、寛大であると理解するだろう。
そして、全てこれらのものがその目に見えないものの主権及び統一を証明しているように、次々に起こっているこれらの革命、及び、変更が彼の継続、及び、永 続を証明している。なぜなら、事柄を起こしていると我々が想像している原因は物と共に消え去る。一方、その後、事柄が繰り返し起こる。ということはこれら の作品は原因のものではなく、消滅することのない何者かの作品であることを意味する。当然、川の表面に泡ができては、光り、そして消える。その後に別の泡 が同じようにできては、光って、消える。それらを光らせるものは、不変のそして高度な光の所有者である。同様に、これらの作品全てが、急に変り、なくな り、その後に来るものがまた同じ特徴を持っているということは、それら全ては永続的で、不滅であり、唯一である主の芸術であると表明している。
第11の証明
私の友人よ!さあ、今までの10の証明と同じくらい強力で決定的な証拠をあなたに示そう。船に乗ってはるか遠くの半島[20]へ 行こう。謎に満ちているこの世界の鍵はそこにあるはずだ。全ての人は、その半島をみつめ、そこから何かを待ち、命令を受けている。今、我々はこの半島に向 かっている、そしてようやくそこに着いた。さあ、大集会だ。国の全ての重要な人々がそこで集まったかのようなである。注意深くごらんなさい、この大きな共 同体には、リーダーが一人いる。もっと近づいて、彼のことをもっと知ろう。見なさい!彼は光り輝く、何千ものしるしを示していることか。なんと力強く語ることか、なんと彼は優しく話されることか。こらの2週 間で、私は、彼の言葉を一部理解できるようになった。あなたも、私からそれらを学びなさい。この国の奇跡を示す王について彼が話している。さあ、理解し て。輝かしい王が、我々に彼を送ったと彼は言っている。御覧なさい、彼はすばらしい奇跡を示している。彼は疑いなく王の特使である。よく注意なさい、彼が 話す言葉は、ただこの半島上の生物のみ聴いているのではなく、国のすべてが実に驚くべき方法で耳を傾けているのだ。近くの人も、遠くの人も、全ての人が、 ここでのスピーチを聴こうとしている。それに耳を傾けているのは人間のみではなく、おそらく動物もである。さらに山々さえもが、彼のもたらした命令を聴 き、大地さえも揺れ動いている。木々も彼が示す場所へ移動し、望んだ場所どこからでも、彼は水をもたらす。彼は、彼の指をカウサルの泉ように作り、そし て、それらから飲み物まで与える。さあごらんなさい、この宮殿の雄大なドームの中にある大切なランプ(月のこと)は、彼の指示で2つに分裂した。それは、 その存在全てと共に、この国が彼の公務をを認めていることを意味する。彼が幽玄の奇跡を解き明かすことのできる優れた真の通訳者であり、主の使者で、彼の 守護を明瞭に伝える伝達者であり、彼の命令を伝える信頼できる特使であるということを知っているかのように、それらすべてが彼に注意して、服従する。彼が 語った言葉を周りの知性あるすべての者達は「はい、そうです、そのとおりです。」と認める。いや、おそらくこの半島の山々、木々、そして全世界の国々を照 らす巨大な光のランプ(太陽のこと)さえも、彼の命令に頭を下げ、「はい、そのとおりです。彼の語ったことはみんな真実です。」と断言するだろう。
従って、私の愚かな友人よ!そ の王自身の宝庫特有の千のしるしを携え、光り輝く、壮大で、重大な存在である奇跡を示す王に関して、また国中の進歩的な著名人たちが全知力をしぼって承認 し述べている彼が語る王の属性と彼の伝える命令について、はたして矛盾や偽りを見出すことができるだろうか?これらのものの真実に反して何かあるならば、 この宮殿やこれらのランプやこの共同体の存在も真実も両方を否定しなければならなくなる。もしあなたができるならならば、これらに反論して見なさい。残念 ながら、あなたは、証明の力によって粉砕され、そして、あなたに投げ返されることを理解するであろう。
第12の証明
さあ、来なさい、少し賢くなった私の兄弟よ!私は、前述の11の 証明の強さにもまさる証明をあなたに示そう。さあ、天から、みんなが驚きと尊敬をこめて注意深く見つめるこの光輝く王の命をごらんなさい。千のしるしを携 えた彼は、そのそばにとどまり、その命令の意味を全ての人に説明している。その命令の様式は、見事に光り輝いているので、誰もが惹きつけられそれを注視す る。さらに、真剣な重大な問題について語るので、誰もが耳を傾けないわけにはいかなくなる。というのは、この国すべてをの土地を統治し、この宮殿を作り、 そしてこれらの奇跡を示す御方の特性、行動、命令すべてについて語っているからである。ちょうど、命令全体に力強いしるしがあるように、見なさい!すべての行、すべての文にも比類ないしるしが見られる。更に、意味、真実、命令、及び、それが表す英知には、しるしの意味を助ける彼の特別なスタイルが見られる。
短くいえば、至高なる命令は太陽のように絶対的な存在(神)を示すので、盲目でないものは誰でも見ることができる。従って、私の友人よ!あなたがあなたの知性を取り戻したならば、これは、当分は十分である。もしあなたが何か言うことがあるならば、今話しなさい。すると、頑固な人は次のように返答した。
「私は、あなたの示したこれらの証明に対して、ただエルハムドリッラー(アッラーを讃え、アッラーに感謝いたします)と言えます。私は、信じるようになり ました。そして、私は、太陽とのように輝き、昼のように明るいこの方法を信じ、そして、その国の完璧な唯一の王、その世界の偉大なる唯一の所有者、その宮 殿の唯一の美しい創造主の存在を受け入れました。アッラーがあなたを嘉給いますように。あなたは、私の以前の頑固さと愚かさから私を救ってくれました。あ なたが示した証拠の各々は、真実を説明するのに十分でした。けれども、証明が次々にすすむにつれて、より明瞭でより楽しく、よりふさわしく、より輝き、よ りよい知識の層々と認識のベールと愛の窓々が開かれ明らかにされていくので、私は(それらを)待ち望み、耳を傾けてきました。」
神が唯一であるという真実と神への信仰を示すこの象徴化された話は、ここに完成される。慈悲深き神の恵み、光り輝くクルアーン、及び信仰の光によって、神が唯一であるという真実を、太陽の象徴的な話の12の証明と一致する12のレマー(光)及びその序文で説明しよう。
وَ مِنَ اللهِ التَّوْفِيقُ وَ االْهِدَايَةُ
「成功及び導きは神のみが齎す。」
第23のひかり
自然のたより
―他の議論が不可能であることを示して、アッラーの存在と唯一性が明らかであるのを証明する。―
17番目のレマーの16番目の通告であったが重要であるため23番目のレマーに変えた。自然に由来する無神論を再び復活させぬように撲滅し、不信仰の礎石を崩す。
注意-1
この通告では自然学者たちの中の不信仰の方が進んでいる道がどれほど非論理的で迷信的であるかを少なくとも90の不可能を包含する9の不可能なことで説明してある。他のリサーレ(便り)では例の不可能なことは部分的に説明されているため簡潔を守るようにある頂は省略されている。そのため学者たちが、迷信的であることが明瞭なのになぜ信じているんだろう。」と言う考えが頭に浮かぶ。
さて彼らは自分たちが進んでいる道の真相を見れないので彼らが進んでいる道の実情とその道が必要としていることのは下に説明されている。汚くてふさわしくないことであるのをかなり明るくて絶対的な証拠を使用して疑っている人に詳しく説明し証明する[21]。
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
قَالَتْ رُسُلُهُمْ اَفِى اللهِ شَكٌّ فَاطِرِ السَّموَاتِ وَاْلاَرْضِ [22]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「使徒たちが言った:あなた方は天と地を創造された方アラーに就いて疑いがあるのか。」
クルアーンのこの節は否認を認めさせながら質問し「アッラーに就いて疑いは無いし、あるはずも無い」と言いアッラーの存在と唯一性が明らかであるのを証明している。
注意-2
1338年 に(イスラム暦)にアンカラに行った。イスラム軍がギリシャ軍に勝ったため復活した信仰の強い考えの中に、非常に恐ろしい不信心の考えが入ろうとしてい て、信仰の真理を壊し不信心の考えを植え付けるために悪魔のように懸命に努力しているのを見た。「ああ!」と言った。「この竜が信仰の原理に手を出 す!」。その時、上記の節は明らかにアッラーの存在と唯一性を説明しているため、その節に助けを求め、不信心の考えを打ち砕くほど強い、重大なクルアーン から得た証明をヌールのアラビア語の論文に入れた。アンカラのイェニギュン印刷所で印刷してもらったが残念ながらアラビア語のできる人が少なく、注意深く 読んだ人も非常に少ないため、この短くて簡潔な証明は影響を与えず、あいにくその不信仰の考え方は発達し強くなった。やむを得ずその証拠をトルコ語で部分 的に説明する。その証明のある部分は色々なリサーレで完全に説明されているためここでは簡潔に書く。他のリサーレでは別々に説明されている証拠はこのリ サーレで短くされまとめられている。
前書き
人間よ!これを知ってほしいのだが、人々の口から発する無信心を感じさせるような言葉がある。信仰のある人々も知らないでその言葉を使ってしまう。その言葉の中で、重要な3点を説明する。
1番目:原因(熱や湿、風、引力等のようであって、結果をもたらす物理的な理由)が事物を創造する。
2番目:自分で自分を造り出して終わる。
3番目:自然である。自然が必要として作り出す。
さあ物事は存在していて、これだけが否定できない。それに全ての存在が巧みに知恵のあるように現れている。それに存在の始まりがあると分かっているし、終わってまた作り直されているのも分かっている。
無信心の人よ!確かにあなたは言う:「この存在を、たとえばこの生き物をこの世の原因が創造している。つまり原因のまとまりで生ずる。あるいは自分で自分 を作り出す、または自然が必要としているため自然の影響で生ずる。それとも全力全能の唯一のアッラーの力で創造される。論理的にこの四つの考えのほかに考 えが無い。最初の三つの考えが不可能で無用でありえないことであるのを明確に証明すれば当然、本質的に四番目の「唯一のアッラー」の考えは疑いなく正確で あることになる。
1番目の道
「世の中の原因のまとまり」で物の構成と生き物の創造である。たくさんの不可能の中から三つを述べる。
n 不可能1.1
ある薬局に、中に色々な物質が入っている数多くの瓶がある。その瓶に入っている物質を使用して一つの生命体を作るとする。すると、その薬局で作ろうとした 生物の多種多数を見た。調べてみたら各瓶から特別な計算にしたがって取られた物質によってそれらの生命体が作られたのが分かった。もし、少しだけでも少な かったり多かったりすると生命体ができない。
さて、薬びんは様々だが、それぞれの薬ビンから抽出された成分の分量は、各々違う。抽出された成分と同量の一定量の成分が、偶発的あるいは強風によってビンが倒され、流れ出し、結合し、ある生命体を形成するなどということはありえるだろうか?
またこの考えよりもっとわるい迷信、不可能なことがあるのだろうか。ロバが最低のロバになってその後人間になり話せるようになれば「この考えを絶対に認めない」と言うに違いない!
つまり、今の例のように全ての生物は生命体にあたる。それに全ての植物は活気を与えられた薬のようなものであるが、たくさんの薬物や色々な物質の中から非 常に細かい計算にしたがって取られたものからできたのである。もし原因と要素を取り去って「原因が創造した」と言ったら薬屋の素晴らしい薬が瓶の倒壊に よって作られたことと同じように理にかなわないし不可能で迷信である。
結局、この世界と言う薬屋で始まりの無い唯一の神様アッラーによって作られ、計算にしたがって取られた活気を与える物質は、無限の知恵、限りの無い知識と 全ての存在を囲む意欲によって現れることができるのである。「目の見えない、耳の聞こえない、洪水のように流れているたくさんの要素や、自然の元素や原因 が創造したのである」と話している愚か者は「その不思議な薬は、自分で瓶の倒壊によって現れた」と話す気違いのようなものである。
さてその間違った考えは愚かな酔っ払いが言うようなたわ言である。
n 不可能1.2
もし全ての物事を唯一で全知全能のアッラーではなくて原因が創造したと言ったら、この世界に数多く存在する要素と理由が各生物の創作に介入しているはずで ある。しかし蝿のような小さい生物の体にデリケートなバランスと完璧な一致で、色々で対立している原因がまとまることは明らかに不可能であるが蝿の翼の大 きさぐらいの頭脳のある人は「これは不可能だ!ありえない!」と言うはずである。
さて蝿の小さな体は宇宙のたくさんの要素と原因に関係している、ある意味で蝿の体はこの宇宙の要約(本質)である。もし全知全能のアッラーが創造しなかっ たとしたら、その物質の元(源)が蝿の体の極近くにあらかじめ用意されるか、または小さな蝿の体自身の中に存在しなければならない。さらに体のごく小さな モデルである目の一個の細胞の中にも存在する必要性が帯びる。なぜなら、根源が物質として存在するならば、 根源は、結果として形成される物質の極近くか、その中に存在するべきだからである。つまり針よりも小さい、蝿の足でさえ入ることのできないその細胞の中で 自然の要素などは存在し、労働者のように動いているのを認める必要が出てくる。こうして最も馬鹿なソフィストでさえこのような考え方は変だと言う。
n 不可能1.3
اَلْوَاحِدُ لاَ يَصْدُرُ اِلاَّ عَنِ الْوَاحِدِ という決まり言葉通り「もしもある存在が唯一性を持つのであればもちろんその存在は唯一性を持つほかの存在によって創造されたはずである。」それにその存 在は非常に素晴らしく秩序ある生命をもっているのであればその存在を創造したのは混乱の原因となる多数のものでなく、唯一で全知全能のものであると確実に 分かる。これは明らかであるにもかかわらず。意識や気力が無く、知もなく、混沌とした中で、目も見えず耳も聞こえない自然的原因が、(その原因は可能性の 満ち溢れた道では集合して交じり合い、盲目さや耳の聞こえない不自由さをより増していくのだが)その原因の混乱した手によって,秩序均衡の取れたすばらし い生物(存在)を創造したと言うのは百の不可能を受けいれるほど不合理である。
まあ、この不可能を無視しても唯物論的な理由の影響は接触と直接なコンタクトで生じる。しかし誰でも分かるようにその唯物論的な理由が生命のある存在の外観と接触するのである。だがその唯物論的な理由の手が届くはずの無いその生命体の目に見えない部分は外観より10倍もきちんとしていてこまやかで、美しくて芸術的な面でも完璧である。
唯物論の材料の原因の手といろいろな器官がけっして近くに位置できず、外面にもタッチできず、しかも最も大きい生物よりいっそう奇妙で、芸術と創造に関し てはすばらしいのに、小さくて生命がある生物が属性に生命がなくて、無知の、天然のままの、遠くて、巨大で、矛盾して、耳が聞こえなくて、盲目の唯物論の 原因で成り立つということは、何百の盲人と何千も聾になるということである。
2番目の道
これが『それがそれ自身形づくる』というフレーズによって表される。この方法も,あまりに多くの面に多くの不可能をまき込んで、馬鹿げていて、不可能である。例えとしてそれらの3つだけを説明する。
n 不可能2.1
頑固な否認者よ:あなたの自己中心癖は、100の不可能を突然、受け入れさせるほど、あなたを支配している。あなた自身は無性物または、変化しない単純な物ではない。
むしろ絶えず新しくなる非常に規則正しい機械および、連続的変化を経験しているすばらしい宮殿のようである。分子はあなたの体で絶えず働いている。あなたの体は特に、種属の食物と世代に関して宇宙と相互関係を持っている。
働く分子は、その関係を台なしにしない、壊さないように気を付ける。まるで宇宙の全てを考慮していて、それの範囲内であなたの関係を見ているごとく、仕事 をスムーズにしている。あなたはそれらが取るすばらしい位置に従ってあなたの外部のと、内部のセンスと共に利益を得る。もし体の中の分子が永遠の全て強力 なものの法則に従って運動している小さい役人、または軍、またはポイントのようである各々の分子がその物のペン先であることを認めなかったら、例えば目の 中で働いている分子には、あなたの体のすべての部分が見られると同時にそれに関連している宇宙全体をも見ることができる目が必要となる。これに加えて各々 の分子があなたの存在全ての要素の起源と食物の源とあなたの過去と未来の親戚を識別するのに十分な100の天才に等しい知性を与える必要が出てくる。。あ なたのようにこの種の問題について知識の全然ない一人の分子に1000のプラトンに等しい知識があるというのは大変な迷信である。
n 不可能2.2
あなたの存在は石がサポートなしでサスペンションで一緒に立つ1000の丸天井(ドーム、まるてんじょう)の驚くべき宮殿に似ている。実はあなたの存在 が、そのようなパレスよりいっそう千倍すばらしいである。なぜならばあなたの存在のパレスが、完全な命令で連続的に新しくなる。本当にすばらしい精神と心 臓と他の微妙な才能をわきにおき、あなたの体の各々のメンバーが、宮殿のたった一つのドーム形に似ている。ドームの石のように分子は、完全な均衡と整頓と した、驚くべき建物で(例えば目や、舌で)一緒に立って素晴らしくて異常な芸術とパワーの奇跡を見せている。それで分子が宇宙のマスター建築家の命令に依 存している各々の役人ではなかったなら、各々の分子は、絶対に全ての他の分子に対して支配的、かつ支配下になければならない。そして、双方は互いに同等目 と舌あり、支配位置に関しては相対立する。唯一なるアッラーに関する多くの属性の起源も極端に制限される。つまり、完全なる形も完全に秩序ある個々の人工 物の形、双方とも唯一なるアッラーの御業なのである。良識があれば誰でもこれが明らかに不可能であるのが分かる。
n 不可能2.3
あなたの体は全て強力なもののペンで「書かれていなくて」その代わりに原因か自然において印刷物であるとすればあなたの体の中の細胞ごとに何千も形があるのは必要になる。
例えばこの本が「書かれた」とすれば、たった一つのペンがある作家の知識に頼ってそれを書くことができる。他方、「それが誰にも書かれないで自分で成り 立った」または「自然のせいで存在している」とすればその本を印刷するために各々文字ごとに異なる鉄のペンが必要になる。印刷所で文字ごとに鉄の形があっ て各々の文字は印刷される。だから一つのペンの代わりに文字数の形が要る。もし各々の文字の形のいずれも小さなペンで、芸術的で詳細達筆に書かれたなら ば、文字の一つのために小さなペンが何千も必要になる。もし各々の文字は完ぺきな事情で、互いに結んであなたの体のような形を取るならば器官ごとのために 文字数の形が必要になる。
それでは、百不可能を必要とするこの考え方はありそうと言っても、各々の文字とあっぱれな形や素晴らしいペンを作る一人がいなかったら、各々の文字と形と ペンを作るためにまたもっと詳細な程度でペンや文字や形が必要になる。なぜならばそれらも精然に作られたものであろう。これは相次ぐ続く。
もうあなたも理解しなさい!考えているこの方法にはあなたの体の分子の数で不可能と迷信がまぎれ込んでいる。アッラーの否認者よ。少しでも恥ずかしさを知り、悪行を止めなさい。
3番目の道
「自然は物事を必要とする。;自然は物事を作り出す。」この声明は、多くの不可能を含む。我々は例としてこの中の三つの不可能を述べる。
n 不可能3.1
もしも存在で、特に生命のある存在に見られている、明らかで知恵のあるような創造と芸術が永遠な光を我々人間に与えてくれる永遠の太陽、すなわち全知全能 のアッラーの出来事でないとすれば-つまり盲目でつんぼで意識のない自然と力の仕事だと言ったらー自然が創造のためにすべての存在の中に無限の精神的な機 械や工場を持つ必要が出てくる。あるいはすべての存在が宇宙を創造できる力を持っているということになる。
何故かというと、太陽の明示と反映は地球上のガラスと小さな滴の全ての小さい破片に現われる。もしもそれらのミニチュアの反映された想像上の太陽が、空に おいて太陽の光の出来事とされない場合、中にマッチの丸い先のようなものでさえ入れないぐらい小さい破片の中に実物の太陽の外部の存在を認めなければなら ないことになり、それにしたがって、小さい破片の数と同じ数の太陽の存在を認めることになる。このように、この世の中のすべての生命体や存在を永遠の太陽 つまり全知全能のアッラーが創造したと認めなければ、各生命体の中に無限の力や意志力や無限の知識と知恵を持つ自然か何らかの力か、まるで神のようなもの が存在することを認めなければならない。しかしこのような意見は宇宙中もっともおかしい迷信である。宇宙の創造者アッラーの芸術を無意識で重要性のない自 然のものとする人間は、真理にどんな動物よりも下等な無意識の生き物になる。
n 不可能3.2
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もしも最も整頓としていて、正確な計算で、芸術的に形作られている存在を無限に強力な方つまりアッラーが創造したとしなければ、自然の各土の小さな部分に ヨーロッパにある工場と同じ数の機械が存在することになるのであるが、このように考えれば数多くの果物や花の原産地となっている土がその果物や花を育てる ことができるようになる。なぜならば花のための植木鉢の役をしているとなっている少量の土が、中に順番に入るかわるがわる花の種を区別し色々な花を形作る 才能があるのは明らかである。
もし全知全能のアッラーが創造したとしなければ、その少量の土の中に各花のための異なる自然的な機械が存在しなければならない。なぜならば種も精子と卵と 成分が同じである。つまり水素、酸素、炭素と窒素の無秩序の混合である。それに空気、水、温度や光が全ての物事に対して洪水のように無意識的な行動を取っ ている。これにしたがってその数多くの花が異なる形をもって、芸術的で規則的にその土から出るということは、その少量の土の中にヨーロッパと同じ数の機械 の存在を認めることになる。こうすれば例の生命のあるものや芸術的なものを作ることができる。
結局自然崇拝者達の不信心的な考え方が従って自然主義者という人たちの無信仰している考えがどれくらい理屈に合わないかあなたは理解することができる。
質問:もし“自然が創造したとすればこれほど多くの不可能が出てくる、ものごとが起こるのはものすごく難しくなる。それでは全知全能の唯一のアッラーが創造したとすれば不可能はなぜ消えるのか。それに起こるのがあれほど難しくなった物事はなぜ非常に起こりやすくなるのか?
答え:1 番目の不可能で述べたように輝いてるかけらや水滴などの輝きが太陽からいただいている光を映してるものとすれば説明は簡単にいくのであるが、もしその太陽 との関係を怠ったらすべてのかけらや水滴の中に非常に複雑な形を持つ小さくて数多くの太陽の存在を認めることになる。同様にすべての存在を唯一のアッラー が創造したとすれば、その存在が必要としているすべての要因を彼だけから求めることになり物事が起こるのは何よりも簡単になるのである。
存在の彼との関係が切断されてアッラーに命じられた任務に従わずに取り散らかって各々存在が放任され自然に任せられたら、宇宙のまるで目次になっている小 さな中にある何の認識をも持っていない自然がすべての宇宙を創造し支配もできる力を持っていることを認めなければならないことになるがこれが不可能以上で ある。
結局、唯一のアッラーに似たものが存在しないように万物を創造することや支配することにも手を出すのは不可能である。
それで不可能3.2に ある困難とは:いくつかのリサーレでも証明されたが、もしすべての存在が唯一のアッラーによって創造されたとすればひとつのものを創造するように非常に簡 単になるけれど、原因や自然が創造したとすれば一つのもを作るのはすべてのものを作るように難しくなる。これはいくつかの証拠を使って証明された。その中 のひとつの証拠とは:
ある人があるお王者に軍人あるいは役人として従ったならば、従ったことによって得た力のおかげで自力の100倍もあることができるようになる。たとえば王 者の名前で、ある将軍を逮捕することができるようになる。なぜならばやる仕事や作るものに必要な道具や力を自分で持たないし、持つ必要もない。同様に王者 の軍隊と国庫がその道具と力を持っている。したがってその役人の仕事が大きな軍隊が大きなお金を使ってやった仕事と同じレベルですばらしい仕事になれる。 小さな蟻が偉いフィルアウン(ファラオ)の宮殿を破壊させるように蝿も同様にネムルードを殺すことができた。そして、その関係を通してほんの少しの小麦の サイズの松の種が、巨大な松の全ての部分を生じさせる[23]。その関係が切断されると、種の創造が、巨大な松の木より強力なパワーと芸術を必要とする。なぜかというと例の松ノ木のすべての部分がその種の中に存在する必要が出てくる。その木の工場が種である。種の中に書き込まれている木が外で形成される。
アッラーとの関係が切断され放任されたら、なすべき仕事に必要な道具や力を自分で持っていなければならない。その時、弱い腕の力と腰についている弾だけで できる仕事をする。関係を持った場合にできる仕事が頼まれたらその仕事をできるために腕に軍隊の全員の力を入れ腰に全員の弾をつけることになるが、何を聞 いても笑うような気違いの人でさえこのようなことを聞いて恥ずかしがるのであろう。
要するに:全知全能で唯一のアッラーが創造したとすれば物事が簡単になる。自然が作ったとすれば不可能だし理屈に合わない。
n 不可能3.3
いくつかのリサーレに載っている次の二つの例がこの不可能を説明する。
1番目の例:
ある野蛮人は、大きな砂漠で建てられてそして文明の全ての作品で飾られた宮殿に入った。彼はその室内に目を投げかけて、何千もの秩序ある芸術的に形作られ た物体を見た。愚かさのあまり彼がこう言った“外から誰も干渉せずにこの宮殿の中にあるひとつの家具がこの宮殿をすみからすみまで作ったはず。”どう見て もこの宮殿の中に宮殿自体を作れるものはない。それから野蛮人がその宮殿にある家具の数や種類のリストとその宮殿で暮らすためとルールが書かれている一冊 の本を見つける。手も目も道具ももっていないその本もこの宮殿を作ったはずがない。しかしほかの物よりしっかりしていて宮殿の情報が色々載ってると思い、 ほかの手もないから彼が“この宮殿を建てこの作品を作り飾ったのはこの本であるはず”と言ってさらに自分の愚かさを証明した。
今の例のようにどんなに大きくてすばらしい宮殿よりもきれいで整頓としているこの地球という宮殿に不信心の野蛮人の自然崇拝者が入ってくる。万物を唯一の アッラーが創造したことを拒否し、アッラーがいつも書き換えている文章のようでアッラーが下す命令の掲示板かそれが載っている本のようなものになっている “自然”を見てこう言う:
“もしこれに理由が必要だとすれば、この本より関係しそうなものは見当たらない。まあ、目も手も認識も持たないこの本が全知全能のアッラーの力によって創 造できるものを創造するはずがない。しかし、全知全能のアッラーの存在を認めないから、この本がこの宮殿を創造したと言うしかない。”
で我々が言う:
おお!おまえ!間違っている不幸な人よ!あなたの愚かさは、想像できるよりも上回る!自然の沼から頭を救い出しなさい。そして周りを見なさい!原子から星 まですべての存在が別々の方法で示している全知全能の唯一のアッラーを見なさい。それにその宮殿を建てその本に宮殿のプログラムを載せたアッラーの美しさ を見なさい。命令に従いクルアーンを聞き自分を錯乱から救い出しなさい。
2番目の例:
ある非常に野蛮な人が兵舎に入り込む。非常に然としている軍人の一緒の動きをみる。一人の動きによって一つの大隊、あ るいは一つの連隊が動き出すし、立ったり座ったり歩くのを、そして撃てという命令で皆で撃つのを見る。しかし愚かさのあまり、命令や命令に従うことを理解 できないから全員の軍人が物質的な糸でお互いに結ばれていると思ってしまう。その物質的な糸がどれほどすばらしい糸であるんだろうと考えて感動する。
それからイスタンブールにある巨大なアヤソフィアモスクに行って金曜日の礼拝に参加する。人々が一人のイマーム(礼拝の時一番前に立ち礼拝を行う人)の言 葉を聞いて立ったり座ったりするのを見る。アッラーやアッラーの命令に従って礼拝を行っていることを理解できないわけだからモスクにいる人々がもので無理 やり動かされていると思ってしまいどんなに愚かな考え方よりもおかしい考え方を示す。
同様に全知全能のアッラーの兵舎でありモスクでもあるこの宇宙に何よりも危ない考え方である不信心の考え方を持つ自然崇拝者が入ってくる。その全知全能の アッラーが創造してくれた宇宙の規則を物質的なことだと思ってしまい、それにすべての規則や創造物が自分以外何とも関係していないと思い込みすべての存在 を自然と命名し、アッラーの永遠のパワーを示す小さな力に過ぎない自然を全知全能のアッラーと間違ってしまう。これは最低な行いである!
結局、自然崇拝者が証拠なしで“自然”と呼んでいるものは実際に存在しているとしても芸術品であるが芸術家であるはずがない。
刺繍であり刺繍家であるはずがない。
規則集であり支配者であるはずがない。
法であり立法者であるはずがない。
創造物であり創造者であるはずがない。
述語であり主語であるはずがない。
規則であり力ではない、全能であるはずがない。
字であり鉛筆であるはずがない。 結局
存在は確かに存在するし16番目の通告でも述べたように存在のありさまを説明するために4つの方法しかない。その4つの方法の中の三つが、それぞれ3つず つの不可能をっ示したので愚かな考え方であるのは証明された。もちろん疑いなく4番目の方法つまり唯一のアッラーの存在を認める方法は正しい方法であるの が確実に証明された。その4番目の方法とはاَفِى اللهِ شَكٌّ فَاطِرِ السَّمَوَاتِ وَاْلاَرْضِ 「あなたがたは天と地を創造された方、アッラーに就いて疑いがあるのか」[24] という節にも記されているように、全知全能で唯一のアッラーがずべての存在を一人で創造し宇宙を永遠に支配することである。
原因だけを考え自然を崇拝する情けない人よ!
すべての存在の自然が同じく創造物である。それは芸術的で作り直されているからである。原因の結果として出てくる存 在のように原因も創造物である。それにすべての存在を創造するには数多くの道具や要素が必要である。そしたらその自然と原因を創造する全知全能のアッラー が存在する。全知全能のアッラーが力のない道具や原因を自分の仕事をする時、協力してもらうはずがない。とんでもない!確かに結果と原因を一緒に創造し自 分の力と美しさを見せるとともに、勘違いしてアッラーの力が物事を創造するには不十分だといわれるのを防ぐために理由を隠すための道具として使っているわ けである。
ある時計屋さんがまず時計の歯車などを作ってから時計を組み合わせるのと、複雑な機械を作りその歯車の中に入れ時計をその知能のない機械に組み合わせさせ るのとどっちのほうが簡単だろうか?2番目に言ったのは不可能であるまいか。では、その情けない頭を使って考えてみて。
あるいは、ある作家がインクと万年筆と紙を持ってきた。それらの道具を使い自分で書いたほうが簡単か?あるいは、その紙、万年筆とインクとともに、書く本 よりも複雑で芸術的で面倒でその本だけのための機械を作って、その意識のない機械に“それじゃお前書け”と言って、ほかに何もしないほうが簡単か?自分で 書くよりも100倍難しくないだろうか?
- もし“はい。一冊だけだったら本を自分で書いたほうがもっと簡単であるが、作った複雑な機械のおかげで何冊かの本を短い時間で印刷できる。”といえば:
- 我々はこう答える:
永遠の創造者アッラーが永遠の力を使って自分の美しさをいつもさらにより美しく見せてくださっている。いつも違う方法で見せるために個人個人の姿をお互いにまったく似ていないように創造し各創造物が違う意味を示している
もし目をもっているならば、人間の顔を見なさい。アダムから今の時代までにおそらく永遠にこの小さな顔で種類をたくさん創造し、各顔にほかの顔と似ないよ うに何かを飾っている。つまり各顔が本である。しかし違いと芸術をはっきり見せるために違う道具と違うスタイルなどが必要になるそれに素材を持ってきて並 べて合わせるために違う作業台が必要になる。無理だが自然を作業台としても宇宙から必要な分だけの素材を収集し作業台に持ってきてそこでその素材をバラン スよく混ぜるためにまた全知全能のアッラーが必要である。つまり自然を印刷機として考えるのは無意味な迷信である。
さて今の時計と本についての例からもわかるように唯一の芸術家のアッラーが原因を創造するとともに結果も創造する。自らの知恵を通して結果と原因を結ぶ。 宇宙の動きについての規則であるアッラーの常に創造しつづけているいくつかの規則とその規則の美しい一面である物事の本能を自らの意志でアッラーは創造し てくださった。それにその本質と外部を結ぶ姿を自らの永遠の力で創造され お互いに混ぜたのである。数多くの証拠で証明されたこの真実を認めた方が簡単だろうか。認めるしかないではないだろうか。それとも活気のない、意識のない 創造物であり芸術品であるその原因や自然に要素や道具を挙げ仕事させたほうが簡単のだろうか。無意味で理屈に合わないじゃないでしょうか。君の頭で考えて もらいたい。
不信心の自然崇拝者がこう言う:
- 考えてもらいたいならわたしはこう言う:今まで進んできた間違った道は不可能で非常に危ない道であることを告白する。わずかな理解と意識を持つ人間誰でも あなた方の以前の説明からわかるように、原因や自然が創造したということは不可能で無意味であり、それにすべての存在を全知全能の唯一のアッラーが創造し たことを認めるほかない。「信仰を持つようになりましたからアッラーに感謝します。」と言い、信じる人になる。
- しかし二つの疑問がある:
疑問1
アッラーが創造者であることを認める。だがいくつかの原因が小さくて大切でない存在や事物の創造に影響を与えるのはアッラーがアッラーであることに害与えるではないか?アッラーの位が下がらるではないか?
答え:
- いくつかのリサーレでも証明したように主権の条件は干渉を断ることである。ただの役人でさえ自分の支配範囲へ息子が干渉することを固く断る。さらに主権に 影響与える恐れがあるとして何人かの王が自分の息子や弟を殺すのも先ほどの“干渉の切断規則”を証明する。ある市に二人の市長をはじめ、ある王国に二人の 国王まで、主権の唯一性を歴史を見てもよくわかる。
力のなくていつも手伝ってくれる者がいないと生きていられない人間が主権をこれほど気にしているのであれば万物の主で万物の上司である唯一で全知全能で欲なんて持たないアッラーが、自らの主権への干渉を断るのは当然である。
疑問2
- たとえばいくつかの小さな理由がいくつかの小さな存在が礼拝の主となったら原子から星まで礼拝をすでに受けているアッラーへの悪い影響があるのだろうか?
答え:
- 全知全能の創造者アッラーが、宇宙を最も完全な木として創造し、その木の最も素晴らしい果物を意識のある生命とし、それに人をその意識のある果物の中の最 も素晴らしい果物とした。さらにアッラーがご自身を人間に詳しく知ってもらい愛してもらうために礼拝を命令したにもかかわらず、つまり人間をアッラーを知 り、彼に礼拝するために創造したにもかかわらずその大事な礼拝をアッラー以外のもののためにするのを許すのは無意味ではないだろうか。自らの知恵にまった く反して、創造の目的となっている礼拝を無駄にさせるのだろうか。絶対にしない!
さらに自分の知恵と主権を否認させるように創造物の礼拝をアッラー以外のものにするのを許さないのは当然ではないだろうか。
それに宇宙での非常に多くの出来事を通じて無限に自分を愛させ知らせているのに、素晴らしい創造物の感謝と愛と礼拝を原因のものにするのを許し自分を忘れさせ、創造の目標を否認させないのではないだろうか。自然崇拝をやめた友人よ!言ってくれ!
友人が言う:
- アッラーに感謝する。疑問が二つともなくなった。アッラーが唯一であることと礼拝する価値のある唯一のものであるのを証拠をいくつか言いながら明らかに証明してくれた。この証明を否認するのは朝と夜の存在を否認することと同じだ。
最後に
自然崇拝による不信心をやめ信仰を得た人がこう言う“疑問がなくなりアッラーに感謝する。しかし知りたいことがいくつかある。
n 質問1
- 怠け者や礼拝を断念する人からこのような言葉を聞く:“アッラーがなぜ我々の礼拝を必要とし、クルアーンでもそれを厳しく命令して、命令に従わないで礼拝 を止めるものを地獄に入れるぞと脅かすのか?公平で安定しているはずのクルアーンの言葉ではなぜこのような小さくて価値のない罪に対してひどい罰を与える のを示す言い方があるのか?
答え:
- はい。アッラーがお前の礼拝を必要としないしそれ以外にも何も必要としない。しかしお前は礼拝する必要がある。お前は精神的に病気である。礼拝は精神的な 傷の薬であることをいくつかのリサーレで証明した。ある医者が患者を治すために薬を飲ませようとしているにもかかわらずその患者が医者に向かって“あなた が何で私に薬を飲ませることを必要としているの?”と聞くのはどんなに無意味であるのをわかるだろう。
クルアーンでの礼拝を行わない人に対しての厳しい言葉であるが:ある王(スルタン)民衆の権利を守るために、劣悪な者が民衆の権利を侵害した場合、過失に 応じて、厳しい罰をその者に与える。同様に、崇拝行為や礼拝を断念する者は、永遠なる主アッラーの統治下に住む人々(存在)の権利を侵害し、彼らに精神的 害を与えることになる。なぜならば、存在の素晴らしさ(円熟さ)は全知全能の芸術家アッラーを称え、崇拝することによって、完成の域に到達するからであ る。礼拝しない者は(自分がその仲間にいないから)存在のアッラーに向かっている姿、彼らの崇拝行為を見ようとしない、いや実際には、見ることができな い。おそらく否認する。その時、アッラーの御名を称え、アッラーを崇拝する高いレベルの人々(存在)や、アッラーの御名や属性を伝え,それらを映し出す鏡 のような人々を,いと高き地位から引きおろし、彼らを価値も役目も気力もなく悲惨だとみなし、過小評価して、彼らのすばらしさ(円熟さ)を否定し、攻撃す るのである。
誰でも宇宙を自分の鏡から覗く。アッラーは人間を宇宙の秩序とバランスとして創造した。一人一人にこの宇宙のある部分を与え、その部分の色をその一人の心 の信仰の状態によって違う方法で見せる。たとえばいつも悲しくて泣き続けている人は周りの存在が泣いているように見る。非常に幸せで明るくていつも笑う人 は周りの存在を笑っているように見る。いつも考えていてまじめに礼拝しアッラーの名誉をあげる人は存在が確実に礼拝している様子を見ることができる。うか つあるいは否認のせいで礼拝を止める者は存在を実体とまったく異なる状態で思い込み、素晴らしさを否認し不正を行う。
それに礼拝を止める者は自分のコントロールできないため自分にも被害を与える。その人の意志もアッラーが創造したものでそれに対する不公平な行いもアッ ラーのものに対する行いとなるからアッラーがその人を厳しく脅かす。それに創造の目標となっている礼拝をやめることはアッラーに対しての不公平な行いとな る。それゆえに罰される。
結局礼拝を止める者は自分の意志にも被害与えるし–人 の意志も唯一のアッラーの奴隷である-宇宙の存在に対しても不公平な行いである。さてアッラーが存在することを否認するのは周りの存在に対して不公平な行 いであるように礼拝を止めるのも宇宙の素晴らしさを否認することである。それにアッラーの知恵に対して牟礼な行いだから脅かされるのも罰されるのも当然で ある。
それゆえにクルアーンがこの真実をはっきりするために非常に素晴らしい形で例の厳しい言い方を数多く示しているわけである。
n 質問2
- 自然崇拝を止め、信じ始めた人がこう言う:“すべての存在がどんなときでもどんなことをやっていてもアッラーの力を必要とするのは非常に大事な真実であ る。巨大な真実だから完全に理解できない。しかし周りの存在の多様性や唯一のアッラーによる物事の創造のやさしさとクルアーンの مَا خَلْقُكُمْ وَلاَ بَعْثُكُمْ اِلاَّ كَنَفْسٍ وَاحِدَةٍ [25]「あなたがた(無数)の創造もまた復活も,まるで一個の魂を扱うようなものに過ぎない。」と وَمَا اَمْرُ السَّاعَةِ اِلاَّ كَلَمْحِ الْبَصَرِ اَوْ هُوَ اَقْرَبُ [26]「審判の時の決定は,瞬き一つのようなもの。またはそれよりもっと短いであろう。」という節にも記されているようにこの真実が非常に論理的でわかりやすいことである。物事は何でこんなに易しく起こるのだろうか?
答え:
-20番目の手紙の10番目のことばである
وَهُوَ عَلَى كُلِّ شَيْءٍ قَدِيرٌ 「本当にアッラーはすべてのことに全能であられる」[27] という節にはその易しさの秘密が明らかに示されている。特にその手紙の最後のところにもっとわかりやすく説明されているのだがすべての存在が唯一の芸術家 アッラーによって創造されたとした場合、一個の存在の創造のように簡単になる。でもアッラー以外のものが創造したとすれば一個のものを造るのは全てを造る ように難しくなる。それで一個の種が巨大な木ほど困難になる。
もし唯一のアッラーが創造したと認めたら宇宙が木のように、木が種のように、天国が春のように春が花のようになり造るのが簡単になる。
それに我々が常に目撃している周りの豊かさと各種類の多様性、物事の容易さ、整頓されるスピードの速さ、芸術的で簡単に行われる創造の秘密を説明し証拠ともなるような例をいくつかのリサーレでも取り上げたように今から述べる。
たとえば百人の軍人を一人の将軍の指図に任せたほうが一人の軍人を百人の将軍の指図に任せることより百倍も容易であるように、軍隊の装備の管理が1つのセ ンターあるいは1つの法あるいは一人の王に任せられたほうが、一人の軍人の装備の管理がいくつかのセンター、あるいはいくつかの法、あるいは何人かの将軍 にまかせられたほうより百倍も容易である。なぜならば一人の軍人い必要な量の装備のために一つの軍隊のための工場が働かなければならなくなるのである。
同様に木の命が唯一性の例の一つとして、一つの根一つの規則一つの地点から出てきているから何千個も果物生み出しているその木が一つの果物のように単純であることが分かる。
もし唯一性を考えずに多数性が認められたら、一個一個の果物をつくるための要素が違うところからくるのを認めることになるのだが、これは一つの果物の生成 を木よりも難しくする。おそらくその木の目次ようなものとなっている小さな種でさえ木より困難な方法で作られることになる。なぜならば一本の木が生きてい られるための全て要素が一個の種のためにも必要となる。
このような例がたくさんあって唯一性によって100個のものを造ることは多数性によって1個のものを造るより簡単であることを証明している。この真実がい くつかのリサーレで明らかに証明されているため、ここでは個の容易の知恵、運命とアッラーの力に関する分について少し述べる。
あなたは存在している。始まりのない永遠のアッラーに自分を差し上げたらマッチを一気に燃やすように、無からあなたを一つの命令で有に変えて、創造する。 もし差し上げなかったら、つまり原因や理由に差し上げたら、あなたなはこの宇宙の果物であり目次であり宇宙に存在するあらゆる物をある意味であなたの体が 含むため、あなたを創造するのに全宇宙を歩き回り、あなたの体の成分を詳細に測って収集しなければならない。なぜならば物質的である原因にできるのは収集 することだけである。
ということで唯一であることがどんなに便利なのか分かったでしょう。
二番目の例は:
知識の面でも非常に容易である。つまり:運命とは知識の一つの種類であり全ての物の限界をように決める。それでその運命的な限界が、物事の存在の設計ある いはモデルとなる。アラーの力で物事が創造されたとき簡単にその運命的な限界にしたがって創造される。もしその物事を創造をアラー以外のものが創造したと すれば難しくなるどころではなく何百もの不可能が出てくる。なぜならばその運命的な限界、知識的な限界がなければ数得られないほどの限定や限界が一匹の複 雑な体している動物の創造に必要となる。
だから唯一性のほうが多数性より理屈に合うのを分かったでしょう。 وَمَا اَمْرُ السَّاعَةِ اِلاَّ كَلَمْحِ الْبَصَرِ اَوْ هُوَ اَقْرَبُ [28] 「あなたがた(無数)の創造もまた復活も,まるで一個の魂を扱うようなものに過ぎない。」のことばがまさに真実であるのを知りなさい!
n 質問3
以前敵であって今友人となった人がこう言う:
- この時代ではやりすぎた哲学者たちの何人かがこう言っている:無から何も創造されていない。有からも何も無くされない。変化だけでこの宇宙という工場が働く。
答え:
クルアーンの光で周りを明るくしていない哲学者たちが考えて自然や原因が–以前証明したように-この宇宙にある物事を創造するのは無理であるのがわかった。それで二つのグループにわかれた。
一つのグループが奇弁家になり人間特有の知性を捨て、最も愚かな動物よりも愚かになり自然や原因が物事を創造したという考え方を認めるよりもっと簡単だからという理由で、宇宙の存在を否認するだけでけでなく自分の存在まで否認し、絶対的な無知を表した。
もう一つのグループはよく考えて理由や自然が種や小さな蝿を創造することに数えられないほどの困難があるのを分かった。それに人間の知性を超える力の存在 を感じた。したがって仕方なく創造を否認し無から有は創造できないと言う。そして無くなるのも不可能だと言う意味で有は無になるはずがないと言う。しかし 偶然的な収集や風などの影響で宇宙が生じたと想像している。
ほら、愚かさの限界に立っているにもかかわらず自分のことを天才だと思っている人々を見なさい。それで無知であることが人をどれほど最低な存在に変えるのかを見て教訓としなさい。
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毎年40万を超える種類を一気に創造し、地と天を6日間で造り、6週間で毎春、宇宙よりも芸術的である世界を造り出す永遠なる力の主アラーが無から有を造 ることができないとは無意味で愚かな考えであり、前に述べた奇弁家のグループの考えよりも馬鹿げた考えである。例の力の無い愚かな人々は自分たちで何も造 ることもできず無くすることもできなく、信じている自然と原因はどうしても無から何も造ることができないので愚かさのあまり“無から有が造られず、有も消 滅しない。”と言ってこの間違った規則をアッラーにも与えようとする。
さてアッラーの2つのタイプの創造がある。
1つ目のタイプはが無から造る。つまり何も無い状態から必要なもの全てを無から取り出し創造する。
2つ目のタイプは設立と芸術である。つまり知恵の素晴らしさといくつかの名前の美しさゐ知ってもらうために宇宙にすでに存在しているものをきれいに集め何かを設立し命令に従う原子や分子や物質全てをその設立した存在のところに送り働かせる。
絶対的な力を持っておられる全知全能のアラーの2つのタイプのつまり創造と設立と言う業がある。無から有を造ることと有を無くすのは最も簡単、連続的一般 的な規則である。春に30万以上の種類の生命体の形や特徴つまり成分になっている物質(原子、分子)以外の全てを無から造る主に向かって“無から有を造れ ない”と言う人間は無になるべき!
自然崇拝を止め、真実を認めた人がこう言う“アッラーに宇宙に存在する原子の数ほどの感謝をする。信仰を私に与えてくださいました。迷いや無知から救われたし疑問も無くなった。
[29] اَلْحَمْدُ ِللهِ عَلَى دِينِ اْلاِسْلاَمِ وَ كَمَالِ اْلاِيمَانِ
「イスラーム教と信仰の完璧さをくださったのでアッラーに感謝する。
[30] سُبْحَانَكَ لاَ عِلْمَ لَنَا اِلاَّ مَا عَلَّمْتَنَا اِنَّكَ اَنْتَ الْعَلِيمُ الْحَكِيمُ
「あなたの栄光を讃えます。あなたが,わたしたちに教えられたものの外には,何も知らないのです。本当にあなたは,全知にして英明であられます。」
第1のことば
ビスミッラーの価値
- ビスミッラーの重要性を愉快な寓話で説明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
وَ بِهِ نَسْتَعِينُ [31]
اَلْحَمْدُ ِللهِ رَبِّ الْعَالَمِينَ وَ الصَّلاَةُ وَ السَّلاَمُ عَلَى سَيِّدِنَا مُحَمَّدٍ
وَ عَلَى اَلِهِ وَ صَحْبِهِ اَجْمَعِينَ [32]
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて
「そして彼にこそ我々は助けを求める」
「全ての世界の主である、アッラーに讃えあれ、指導者ムハンマドと、彼の全ての家族と教友達に祝福と平安がありますように。」
ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム“慈悲深い慈愛遍くアッラ-の御名において”と言う言葉は全ての慈善のはじまり、源である。私たちは何をする前にもその言葉で始める。我が魂よ、あなたも知っておくがいい。その神聖な言葉がイスラムの印でもあり、全被創造物が持っている言葉でもある。
ビスミッラ-こそがいかに偉大であり、尽きることのない力であり、終わることのない豊かさでもあることを次の寓話によっても理解できるだろう。
かつて、アラビアの砂漠を旅する旅人は、ある部族の長の名前と共に旅をした。それによって庇護されねば、邪悪な者の害を避け旅の必需品を賄うこともできなかった。旅人にとっては数え切れないほどの敵や必要な物があるのだから、1人旅ではかわいそうな状況に陥るだろう。
ある日、2人の旅人がアラビアの砂漠に出て行った。その1人は謙遜なタイプで、もう1人 はうぬぼれ強いタイプだった。謙遜な方はある長の名前をとり庇護下に入ったが、うぬぼれ強い方はそうしなかった。長の名前をとった旅人は安全な旅を過ごし た。泥棒に出会うと彼はいつも「私はこれこれの長の名前をちゃんととっているものです」と言いそのため、泥棒は彼を苦しめることなく去った。彼はどこのテ ントに入っても、その名前のおかげで、敬意を払われた。一方、不遜なもう1人の男は、惨めさそのもので旅中にいつも、言葉で言い表せないほどひどい目に会 うばかりであり、恐怖で全身が震えながらとうとう乞食をするまでにおちる惨めな状況になった。
さあ、私の不遜な欲望よ。あなたはその旅人で、この世はその砂漠のようなものだ。あなたの弱さや迷いは際限を知らない。あなたの要求もあなたがさらされる 危険も数え切れない。そうであるのだから、この広い世界の永遠の創造主・正真正銘の王の美名を唱えよう。そうしないとあなたは、この世の無限の被創造物に 頭を下げ、あらゆる出来事におびえて震えることになろう。
この言葉が尽きることのない神聖な源で、この言葉を意味を理解して唱えれば、無限に弱く貧しいあなたを全知全能の慈悲深いアッラ-につなげ、あなたのその 無力さこそがアッラーの恩恵を受ける対象になる。アッラ-の名をとり、その庇護下に入ってからのみ行動する者は、軍隊に入り国家と法の名の下で、何者をも 恐れることなくやることを全部どんなに難しくても抵抗してやれる者のようだ。
最初のところでも触れたが、全ての被創造物は無言で「ビスミッラ-」を唱えている。疑問のあるものには説明しよう。
例えば、たった1人の男はある町に行き、そこの人たちを皆どこか別のところに移動させ強制で働かせたとしたら、それを目にした者がよく分かる事実がある。その事実とは、その男は自分の名前と力に於いてそういうことができるのではなく、その人が兵隊で、国家あるいは国王という長の力でやっているということである。
この例にあるようなことが自然界にもしばしば起っている。例えば、小さな種の中から巨大な樹木が出てきて、その種が山のように大きな物を持ち上げるのは全能者アッラ-の 力に基づいた現象であり、その他の創造物もアッラ-の名前に於いて行動している。したがって、この世の中の樹木は全部ビスミッラ-を唱え、慈愛遍き方の恩 恵である色々な果物などをその枝につけて我々人間に食べさせてくれる。アッラ-の恩恵を我々に持ち運んでくれる。又、全ての耕地はビスミッラ-を唱え、全 知全能のお方の力に支えられて、同じ土の中で多様な種類のおいしい農作物が作られる。牛・ラクダ・羊などのそのお一匹一匹がビスミッラ-を唱えているか ら、そのからだの中で、一番美味しくて、清潔な生命の水のような飲み物が作られる。その動物達はアッラ-の名に於いてのみ、人体に数え切れないほどの効能 を持つ最も繊細で純粋な飲み物を私たちに与える。全ての植物、草の葉、根っこや茎もまたビスミッラーを唱え、その草の絹のように柔らかい根や繊維は「アッ ラーの御名において」と唱え、そして堅い岩や土を貫いて中に進む。慈悲者の御名、アッラーの御名を唱えて、全てのものはアッラーの御名と共に成される。
空に木の枝が伸びること、硬い岩や土の中をその根が妨げられずに広がること、地中でそれが自然に増殖すること、激しい暑さにも関わらず水蒸気を保つその繊細な緑の葉−これら全ては自然主義者に浴びせられた強烈な一打のような現実感を作り出す。正真正銘の王 のアッラ-の力に目を向けようとしない彼らの目にこれらの現象を突き刺すように見せこう伝える:「あなたたちの作った自然主義の基本を成す強さや暑さでさ えアッラ-の命令に沿った役割に従っているのである。植物の根の柔らかい繊維のそれぞれが、ムーサー(モーセ)(彼の上に平安あれ)の杖のように فَقُلْنَا اضْرِبْ بِعَصَاكَ الْحَجَرَ [33] 「おおムーサー(モーセ)よ、あなたの杖で岩を打て」の話句の命令を守り、岩を貫くことのこれが理由である。同じように全ての繊細で紙のように薄い葉が、イブラーヒーム(アブラハム)(彼の上に平安あれ)の四肢の一つのように、激しい熱の挑戦を受けたときには、يَا نَارُ كُونِى بَرْدًا وَ سَلاَمًا [34]「火よ、冷たくなれ」の章句を唱える。
従って、全てのものは本質的・本能的にビスミッラーを唱えており、アッラーの恵みをアッラーの御名において我々に渡している。そうであればこそ我々もビス ミッラーを言うべきであり、アッラーの御名において与え、アッラーの御名において取るべきである。我々は神の御名において与えない思慮のない人間からは、 なにも受け取らない方がよい。
質問:我々は何か物を買うときに代価を与える。であるなら全て全き無から作り出した創造主アッラ-はその恩恵に対して我々何を代価として望んでいるか。
答え:私たちが享受する素晴らしい恵みや品物を真に授ける者は、我々につぎの3つのことを対価として求め給う。忘れないこと、感謝すること、熟考することである。
あらゆることの始めにビスミッラーを言うことは、アッラーを忘れないための方法であり、あらゆることの終わりにアルハムドリッラー(アッラーに賞賛と感謝 あれ)を言うことは、感謝することの方法である。アッラーを熟考するとは、常にアッラーの恩恵に注意深くあり、我々が全てのことに関して永遠に懇願される ものの力の奇蹟として、あるいはアッラーの恵みによる贈り物として受け取っている素晴らしく、精巧な恵みについて考えることである。もしあなたが贈り物の 真の送り主に全く気がつかず、王からの高価な贈り物を運んできた貧しい人の手に接吻しなければならないとしたならば、それはなんと馬鹿げたことだろうか。 恵みの真の授け主を忘れているのに、目に見える授け主を讃え愛することは、1000倍も悪い愚行である。
おお魂よ。もし君がそのような愚行を避けたいならば、アッラーの御名において与え、アッラーの御名において受け取れ。アッラーの御名において始め、まさにその終わりまで、アッラーの御名において行え。これこそがあなたを満足させるだろう。
第2のことば
安らぎへの道
- イーマン(信仰)が尽きることのない宝物であることを愉快な寓話で証明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
اَلَّذِينَ يُؤْمِنُونَ بِالْغَيْبِ [35]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「彼ら(主を畏れる者たち)は幽玄界を信じる」
アッラーを信じると言うことはいかに幸せであって、いかに安楽なことであるかということを次の寓話を聞けばわかる。
ある日、二人の男が楽しみと仕事をかねて旅に出た。うぬぼれの人は、ある方向に向かい、もう一方の神に仕えた人は別の方向へ向かった。
うぬぼれの人は、わがままでかつ悲観的であったために、不道徳に見える町に入ることになる。そこではどこを見ても、貧しくて希望のない人々が、いじめで苦 しんでいる。彼はどこに行こうと同じ悲哀な風景を目にする。その土地全体が悲嘆な状況にあるかのように見える。彼はこういう悲哀なことを考えたくないため に酔っ払うほかないと決心する。というのも皆、彼にとって敵や見知らぬ人のように見える。そしてそこら中にある死体や泣いている孤児などの情景をみて、彼 の心は苦しみの中に追い込まれる。
もう一方の神に仕えた人は、心身深くてよい性格を持っていたために大変すばらしい町に行くことになる。この善良な男はその町で万人の祝祭を見る。楽しそう な人々の姿は魅力的な雰囲気を作り皆彼にとって親友や親戚のように見える。前の不幸な人の悲嘆な姿に対してこの幸福な人は皆の喜びと自分自身の喜びで幸せ になる。また素晴らしい仕事が出来、アッラーに感謝を述べる。
彼は帰ってきて、前の男に出会い、その男の事情がわかった後彼にこういった。「あなたはおかしくなってしまった。あなたの心の中にある醜さが表面に反映し ているに違いない。だから、あなたは笑うことにすすり泣き、義務からの解放を略奪と思いこんでいる。良識を取り戻し、心を清めれば、これらの不幸な垂れ幕 が目から取り除かれ、真実を知るだろう。でなければ、どれだけ公正で、心の優しい支配者のこの文明化し繁栄した町もあなたの見たり思ったりしたようではあ り得ない。」
するとこの男は良識を取り戻して後悔し、「私は飲んでいた酒のせいで正気を失っていた、ありがとう。私をそんなひどい状態から助けてくれたことでアッラーが君に喜び給うように」と言った。
おお我がネフス(魂)よ。前者は、不信仰者または邪悪な人を象徴することを理解しなさい。彼にとってこの世界は悲嘆を意味する。生き物は皆離別や消滅のせ いで泣いている孤児を意味する。彼にとって人間と動物は死によって消滅させられる野蛮なものだ。海や山のような巨大な集合体は彼の目に、魂のない恐ろしい 死体のように見える。このような苦悩や不安は不信仰や不義を原因とし彼に精神的な苦痛を与える。
しかしもう一方の男は信仰者である。彼は全能なるアッラー存在を信じ、断言する。彼の見方では、この世は人々がアッラーをたたえ、人類と動物の心身の鍛練 の場、そして試験会場のようなものである。また人間と動物の死はこの世からの解放である。人生という役目を終えたものは次の役目のある者に場所を空け、働 いてもらうためにこの短期間の現世から満足の気持ちで苦労のない来世へ行く。人間や動物の全ての誕生は軍隊に入ることや仕事にかかはることを意味する。全 ての生き物は割り当てられた仕事に喜んでいる将校や公務員のようである。聞こえている音は、仕事にかかる時に言うとなえごとや仕事を終えた時の感謝の気持 ちと開放された気持、または働く幸せを表現する言葉である。すべての被創造物は信仰者の目では従順な僕べであり、親切な人であり、魅力のあるものである。 このようなたくさんの神聖なる真実は彼の信仰に基づいている。
信仰とは天国のスィドラの木の種のような物が潜んでいて、不信仰は地獄にあるキョウチクトウの木の種のような物が潜んでいる。
安心と心の開放はイスラームと信仰にある。故に我々は、
اَلْحَمْدُ ِللهِ عَلَى دِينِ اْلاِسْلاَمِ وَ كَمَالِ اْلاِيمَانِ [36]「イスラームの宗教と信仰の完璧さのために、アッラーに讃えあれ」と言って常にアッラーに感謝を捧げるべきである。
第3のことば
正しい道を選ぶ
―アッラーに従うことはいかに益の多大な取り引きであることを合理的な寓話で説明する―
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
يَآ اَيُّهَا النَّاسُ اعْبُدُوا [37]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「人々よ、(あなたがた,またあなたがた以前の者を創られた)主に仕えなさい」
アッラーに付き従うこと(イバーダ)がいかに大きな商売と幸福を、アッラーに付き従わないことと道楽がどんな大きな損そして滅亡に至るかを、知りたいならこの遇話を聞きなさい。
かつて、ある二人の兵士が遠い町へ向かうよう命令を受け一緒に出発した。しばらくして、その道が二つに別れた。ある賢者がそこにいて、彼らにこう言った。 「この右の道は危険性がなく、旅人の9割は大きな利益を得、旅も楽である。左の道なら利益どころか危険があり、9割の旅人は被害を受ける。両方の道は同じ 距離である。しかしこの二つの道を進むにはそれぞれに違った条件がある。左の方は秩序がなく管理もされていないが荷物も武器もなしに行けるというったやす さがある。右の道は国の管理下にあるが、栄養のあるたくさんの食料をつめた、重さが20キロもある荷物をもち、また誰にでも勝てるかなり重い強力な武器を 身に付けなければならない。」
その二人の兵士は、賢者の言葉を聞いた後、心が良い兵士は右に向かう。彼はかなり重い荷物を肩に乗せる。しかし同時に彼の心は、大変な不安と旅の恐怖をま ぬがれる。心の悪い兵士は兵役を捨て、秩序に従いたくもなく左に向かう。彼の体は荷物の重さから解放されるが、道すがら心は耐えがたいほどの不安と、無限 な恐怖の下でつぶれる。乞食になり、すべての出来事に対して慄く。そのうち目的地に到着するがそこでは、反逆者や逃亡者として罰せられる。
兵役の好きな、荷物と武器を持っていった右の道を行く兵士は、だれの世話も受けることなく、だれに対しても恐怖のない心と良心とともに進む。そのうち、行き先の町に入る。そこでは、自分の義務をきちんと果たした、名誉のある兵士にふさわしい賞が与えられる。
さて、我儘で物欲的な我がネフス(魂)よ!注意しなさい。その二人の兵士、一人はアッラーの敬虔な僕べを象徴するのに対し、もう一人は反抗的で、自らの気 まぐれに従う者を象徴している。その道は人生の道で、霊魂の世界から来て、カブル(黄泉)を通じて、来世へと続く。その荷物と武器は、イバーダ(アッラーに付従うこと)とアッラーを敬うこと意味する。イバーダは一見とても難しいことのように思える。しかし真実は説明のできないほどのやすらぎとやりやすさがある。なぜならば、イバーダを持つ者はその言動の中で、اَشْهَدُ اَنْ لآَ اِلَهَ اِلاَّ اللهُ [38] ― アシュハドゥ アン ラーイラヘ イッラッラー―「私は、アッラー以外に神はないと証言します」という。つまり、「創造主と供給者はアッラーしか存在しな い。良いことであれ悪いことであれ、全てはアッラーの贈り物である。アッラーは絶対的な存在であり、無駄なことをされない。慈悲あまねき存在であり、アッ ラーの慈愛と恵み深さは有り余るほどである」と確信しているので、信仰ある兵士はあらゆる事態においてアッラーの豊かな慈悲の扉を見つけ、祈りながら扉を たたく。そして、全てのものがアッラーの指示に従うことを目にする。彼はアッラーの庇護に入り、アッラーを信用し完全に服従して、全ての悪い出来事から 守ってもらう。信仰は彼に完全な安心感を与える。
そう、あらゆる良心的な行為は無論のこと、勇気の源でさえ信仰とイバーダにある。あらゆる悪い行為は無論、恐れることの源は信仰からの逸脱である。例え地 球が爆弾となり爆発しても、恐らく完全信仰を持つ者を脅かすことはできない。もしかすると、アッラーのすばらしい力を楽しみながら驚きの目をもって見る。 それに対して、有名で教養があり理性をもつ信仰のない哲学者は、空に流れ星を見ると、恐怖に震える。「もしかしたら、この流れ星は地球にぶつかるのではな いか」といい、心配する。昔、このような流れ星のせいでアメリカは震えた。多くの人がその恐怖から夜間家の外に出た。
人間は、数え切れないほどの物を必要としている。だが人間は、手元不如意の存在である。人生の中で無限な災難を受けつつも、自身に対し自ら何もできること はない…その資本や自らが成すことのできる範囲は自らの手の届くところまでしかない。しかし、希望、願い、苦悩と災難は、視野と想像が許す限りどこまでも 広がるほど広大なものである。これだけ無力で弱い、貧乏で苦しむ人間の魂にイバーダ、人事尽くして天命を待つ事、信仰、自身の全てをアッラーに委ねる事が いかに大きな利益、幸せと恵みだということを完全に盲目ではない人は見て、理解する。当然、十分の一の割合でも、害のある道より害のない道を選ぶ。しか し、問題のイバーダの道は、勿論害がなく、十分の九の割合で永遠の幸せという宝物がある。不信仰者と逸脱者の道は、彼ら自身も告白しているように、無益で あり、十分の九の割合で永遠の苦悩に陥ることは様々な目撃者たちの証言によって確かである。
要するに来世の幸せも、この世の幸せもイバーダとアッラーの僕べになることによって叶えられる。従って、私達も「アッラーの道における従順と成功のため、アッラーに讃えあれ」と言わなければならない。そしてムスリムであることをアッラーに感謝するべきである。
第4のことば
命じられた礼拝の価値
- サラートの重要性とサラートをしない人が莫大な損をするということを愉快な寓話で説明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
اَلصَّلاَةُ عِمَادُ الدِّينِ [39]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「規定された礼拝は、宗教の柱である。」
サラートは、どれくらい価値があって、どれくらい大切であり、どれくらい安く、そして少量の費用で手に入るものなのか、またサラートをしない人は、いかに無分別なのかを明白に理解したければ次の寓話を見なさい。
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ある時有力な支配者が二人の召使いに、それぞれ24枚の金貨を渡して2ヶ月間分かれた、砂漠の向こうにある素敵な農場に遣わそうと、彼らにこう言った。 「そのお金を交通費や向こうの家に必要なものに使いなさい。ここから1日の所に駅がある。そこでタクシーや、船、列車と飛行機があって、持ち合わせの金額 によってその乗り物に乗れる。」
この二人の召使いは支配者の言葉を念頭において旅に出る。その一人は幸福だったので、駅までの道のりで、お金を少ししか使わなかった。しかも彼はその支出 したお金の中で主人が喜ぶようなすばらしい仕事をし、持っていたお金が1000倍の利益をもたらした。もう一人の召使いは不良だったために、駅に着くまで23枚の金貨をギャンブルや娯楽で浪費し、金貨が1枚しか残らなかった。幸せな召使いが彼にこう言った。「この長いたびで乗り物にも乗れなくなったり、食べ物を買えなくならないように残ったその1枚の金貨で切符を買いなさい。1枚 の金貨では飛行機に乗ることはできないけれど、我々の主人は寛大であるし、おそらく彼はあなたに哀れみをかけ、あなたの誤りを許すでしょう。そしてあなた も飛行機に乗れて、一日でその素敵な農場に着くこことができる。そうしないと、一人で2ヶ月の砂漠を空腹のまま歩いて横切らなければならなくなる。」
それにもかかわらず頑固で不良な召使いが、価値ある宝箱の鍵のようなその1枚の金貨で切符を買わずに、はかない娯楽に使ったとしたら、彼がしたことはいかに愚かなことであるかは一目瞭然である。
おおサラートをしない人、そしてサラートが嫌いなわがネフス(魂)よ、その支配者は我々の創造主を意味する。その二人の召し使いの一人は信心深く、サラー トを自ら進んでする人を意味し、もう一人は軽率でサラートをしない人を意味する。24枚の金貨は24時間の一日の人生を、その農場は天国を、その駅は墓 を、その旅自体は審判の日までの人生の道のりや来世につながる人間の旅である。その人の信仰の強さやレベルによって皆それぞれのペースでその砂漠を横切 る。光のように千年の道のりを一日で横切る人もあれば幻想のように5万年の道のりを一日で横切る人もある。クルアーンはこのことを二つのアーヤで言及して いる。
又、その切符はサラートである。わずか一時間あれば5回のサラートとウドゥー(小浄)に十分である。23時間を長くないこの世のために費やす人、あるいは 永遠のあの世のためにたった一時間をも費やさない人は、どれだけの損をし、どれだけ自分自身に残酷で、どれだけ馬鹿げていることだろう。というのも、千人 の人が参加している宝くじに財産の半分をかけることは合理的であるのならば―それでも当たる可能性は千人に一人だが―財産の24分の1を、当たる確率が 99パーセントもある永久の宝にかけないことは非合理的であるからである。
サラートをすることによって心や魂が落ち着く。それに、サラートは身体的にもつらいものではない、しかもサラートをする人の普段の生活する上での行為は、 意志をしっかりもっていればイバーダ(アッラーに付従うこと)になる。こうして人生という資金で来世を自分のものにすることができる。換言すれば、このは かない人生が永遠のものになる。
第5のことば
信仰者のための正しい
訓練
- 礼拝することと大きい罪を避けることは人間の真の義務であることを寓話で説明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
اِنَّ اللهَ مَعَ الَّذِينَ اتَّقَوْا وَالَّذِينَ هُمْ مُحْسِنُونَ [40]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「本当にアッラーは,主を畏れる者,善い行いをする者と共におられる。」
礼拝をすることや大きな罪を避けることは、どれほどの人間の義務であるか、人間の性質に適切しているかを知りたければ、以下の話を参考にしなさい。戦争 中、ある部隊に二人兵士がいる。1人は教養のある、良心的な、もう1人は未熟で自己の欲望の奴隷である。良心的な兵士は訓練や戦に注意を払い、食料や軍隊 に必要なものに関して不安を抱かない。なぜならば、食料や軍需用品の共給、病気になったときに適切な治療をすることが政府の義務であると分かっている。
彼の本業は国のために訓練に参加することや国のために戦うことだと知っている。また食糧の供給などの仕事にも参加し、鍋などを洗うといった台所仕事の一部も行う。
- 「何をしているのか」と聞かれると、
- 「国の雑用の一部を行っている」と答える。自分の生活費のために働いているとは言わない。
もう1人の、経験がなく自分に甘い兵士は正規の訓練や戦争に参加しない。「それは政府の問題である、私の仕事ではない、と言う。自分の生活費のみを考えて、本業をさぼり、市場や買物に行く。ある日、教養のある良心的な兵士は彼に言った。
「兄弟よ。君の主な仕事は戦いに備えて訓練し、そして国のために戦うことだ。君はそのためにここにいる訳だ。王を信頼しなさい。王は食料が必要なときに、 君から離れたりしない。食料と手当を与えることは王の責任である。そして君には自分の支給品の手はずを整える能力はない。しかも今は戦争中だから君は恐ら く反乱者か逃亡者であるとして責められ、懲罰を受けるだろう。」
確かに2つの仕事があることは、間違いない。ひとつは王の責任である仕事。もうひとつは我々の仕事である。王は戦争に必要なものを供給する。我々は、訓練 を受け戦う。もし経験がない兵士が、友人が説明しようとしたことを気にしないと、どれほど危ない状況になるかをわかるだろう。
おお、私の怠惰なネフス(魂)よ。その危険な戦場は、混乱したこの世の生活を象徴している。いくつかの部隊に分けられた軍隊は、人間の社会の象徴である。 その部隊は今世紀のイスラーム社会を象徴する。2人の兵士に関して、1人は信仰深くまじめななムスリムで、罪を犯さないために、自己および悪魔と戦う良い ムスリムである。もう1人は、我々に絶え間なく様々なものを授けて下さるアッラーを無視し、多くの罪を犯し、まじめに祈りをしない人である。訓練は、礼拝 やその他祈りの象徴である。戦争は悪魔に対して心や精神を守り、地獄に落ちないようにすることの象徴である。言及された2つの義務のひとつ、生命の創造と 存続は創造者=アッラーのみの責任である。別のひとつは我々の義務でアッラーを完全に信頼することである。最も輝かしい芸術的な奇蹟である生命を創り、食 料を与えその生命を支えることができる存在はアッラーだけである。それを証明することとして最も弱く単純な生物は、魚や果物にいる虫など最も良いものを食 べられる生き物であることである。また赤ん坊や動物の子といった、最も力のない、生き物は最も良い食料を得ることができることである。
食料を得る機会は、力や食性の問題ではなく、弱さによって生ずる問題であることを理解するために、魚とキツネ、赤ん坊と野蛮人、植物と動物を比較することで十分だろう。
生活の為に礼拝をやめる人は話の中のあの兵士に似ているように、自分の任務を無視し、なにも食べられないと恐れて前線から逃れ、市場の中をうろつきまわ る。対照的に、礼拝を行った後に大地-最も気前の良い供給者の慈悲の台所-から食料を求めることは立派な祈りの一種である。
さらに、人間がアッラーにイバーダをするために創造されたことを人間の性質や人間の精神的な世界が示している。人間の単なる肉体的な力や、現世の生活に必 要な能力に関する限り、人間は小さな雀よりももろい。しかし人間の知識、必要性、願いそして信仰-精神的生活や来世での生活に必要なもの-に関して言え ば、人間は全ての生き物の王であり指揮者である。
おお我が魂よ、君が現世を目標とし、そのために働く限り、ツバメほども自らの問題を管理することのできない、ただの兵士になってしまう。しかし、もし来世を目標とし、人生を来世のための準備として考え、それに応じて振る舞えば、動物王国の王や全能なるアッラーに愛され、祈りを唱える僕べ、現世において栄誉を授けられ尊敬されるアッラーの客人になるのである。
さて君には2つの選択肢がある。2つのうちのどちらとも選ぶことができる。慈悲深い中でも最も慈悲深きものに、アッラーの道での成功と導きを求めよ。
第6のことば
最高の取引
- アッラーが私達に預けた命と財産を彼が望ましい方法で使うことはいかに莫大の益があるということを快適な寓話で説明する -
بِسْمِ اللهِ الرَّحْمَنِ الرَّحِيمِ
اِنَّ اللهَ اشْتَرَى مِنَ اْلمُؤْمِنِينَ اَنْفُسَهُمْ وَاَمْوَالَهُمْ بِاَنَّ لَهُمُ الْجَنَّةَ[41]
「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名おいて」
「本当にアッラーは,信者たちからその生命と財産を贖われた。」
自分のネフスや財産をアッラーに売り、そしてアッラーの僕べ・兵士になることはどどれだけ利益のある商売で、どれだけ光栄に満した位であるかを理解したいのなら、次の話を聞きなさい。
昔、一人のスルタンが家来の二人に中に工場、機械、馬や武器と言ったような何でもある農場をそれぞれに貸した。しかし、激しい戦争の最中だったため、物は価値を保つことができない。変化するか、無くなるのであった。
スルタンがその二人に一人の副官を送った。副官が運んだ慈悲深い手紙にはこう書いてあった:
- 「持っている信託の土地を私に売りなさい。あなた達の代わりに無駄にならないよう守っておくから。しかも、戦争が終わったらもっと良い状態にして返す。も しも、その土地を自分のものだと思っているのであれば、高い値段を払う。しかも、その機械や工場は私の名で使われることによって、値段が一から千に上が る。全ての利益をあなた達に返す。しかも、あなた達は弱くて貧乏だからそんな大きな仕事の消費を維持することができない。その全ての消費を私が維持する。 全ての恩恵をあなた達にあげる。しかも、除隊時まで持っていてもらう。ほら、五つの段階に五倍の利益。
もし、私に売らないのなら、見ている通り誰もが自分の物を守れない。手元から離れて行く。無駄にもなり、高い値段も得られない。しかも、その本来なら高い 値段が着く機会などが略奪され、実際の価値を失うのである。しかも、経営と維持の面倒だけが残る。しかも、最初は私が貸してあげた土地だから、それをちゃ んと守れなかったから罰される。ほら、五つの段階に五倍の損。
しかも、私に売るということは、私の名で管理することになる。価値のない奴隷より、高尚なスルタンの自由を持つ兵士になる。」
このメッセージを聞いてから、二人の中からしっかりしている方がこう言った:
- 「畏まりました、お売りすることが光栄です、どうも有難う御座いました。」
もう一人は傲慢で、偉そうに形をつけて、まるで永遠にそこに住めるかのように、世の中で起きていることを知らずにこう言った:
- 「いやだ。スルタンって一体何者だい。俺は自分の土地を売って、今の極楽を失うようなことをしない。」
少し時間たったら一番目の人が、誰もが羨ましいと思うような位置に上がった。スルタンの優しさを頂いて宮殿で幸福に過ごしている。もう一人は皆にかわいそ うに思われ「自分で選んだ道」だと言われた。何故なら、自分の間違いで幸福と財産を失って、しかも罰を与えられている。
ほら、何でも欲しがる自分。先ほどの例で事実を見なさい。そのスルタンとは過去や未来の神様である。
例の土地、工場や機械とはあなたの身体とその中の命、心、舌などの具体的や非具体的な部分である。
その副官とは預言者ムハンマドである。
その手紙とはクルアーンである。
その激しい戦場とは、このどんどん壊れていく世で誰にもこのことを思わせる:
- どうせ今持っている物が手から離れて無くなるのなら、永遠に続く物と交換は出来ないのか。」と思っている内にクルアーンが答える:
- 「出来る。しかも、五倍の利益で美しくて楽な方法がある。」
- 何でしょう。
- 信託を本当の持ち主に売ること。ほら、その商売の五つの段階に利益がある。
1番目の利益:かりの物は永遠的になる。何故なら、アッラーにあげて、アッラーのために使うこの一時的な人生は永遠に続く。永遠の果物をくれる。そうなると人生の一分一分はまるで種のような役割を果たす。見た目には無くなるが永遠の世界で幸せの花を咲かせる。永遠の世界で綺麗な景色を作る。
2番目の利益:天国のような値段が払われる。
3番目の利益:全ての器官の価値が一から千にあがる。
例えば知恵が一つの道具である。もしも神様に売らないで自分自身のために使ったなら人を困らせるような道具になる。だから二番目の人のように意思を聞ず 酔っ払いや楽しみを選ぶ。もし神様に売ってそのために使ったら知恵は魔法の鍵になり、この世にある全ての宝を開ける。それと持ち主に永遠なる幸福をくれ る。
例えば、眼は魂が外を覗く窓となる。もし、神様に売らないで自分自身のために使ったなら、一時的な魅力に惑わされ、その眼の奴隷になる。もし、眼を神様に売ってそのために使ったら眼がこの素晴らしい宇宙と全世界を見て神様を理解する。
例えば、味覚を神様のために使わないで自分のために使えば自分が胃袋の奴隷のようになる。
もし、神様に売ったら、神様が創った素晴らしい食べ物を意識し、神様を意識できる。
知恵よ。注意しろ。不吉な道具はどこにあるか。宇宙の鍵はどこか。
眼よ。良く見なさい。欲の奴隷はどこにいるか。神様の図書館の科学者はどこにいるか。
舌よ。よく味わいなさい。胃袋の奴隷はどこにいるか。神様の作ったものを理解する者はどこにいるか・・・とこれらのように他の道具も比べて見れば分かる。 信じる者が天国行きで、拒否する者は地獄行きになる。それらが高い価値を得ることは神様のために使うことで出来る。信じない者はそれを自分自身のために 使って無駄にする。
4番目の利益:人間は弱い、敵が多い。貧乏である、必要としている物が多い。無力で人生が重い。もしアッラーに従わなかったら心の中で罪悪感を感ずる。苦労の中で酔っ払うか怪物になる。
5番目の利益:全ての器官の礼拝の高い値段が最も必要としているときに、天国の果物として返されるのが分かっている。もしこの五つの段階の有利な商売をやらなければ、利益を失うだけではなくて、五つの段階で損する。
1番目の損:それ程愛していた物や子供または、終わらないと思い込んでいた若さが手元から離れてなくなる。しかし、その苦しみと罪をあなたに残す。
2番目の損:借りていた物をちゃんと返さないと罰される。
3番目の損:その全ての貴重な人間の器官を動物以下に利用して、信託を悪用したことになる。
4番目の損:弱いにも関わらず重い人生の苦労だけをしたことになる。
5番目の損::アッラーを理解し、天国に入れるためにもらった器官を悪用し、地獄に入る。
今、アッラーに売るためにがんばる。一体、そんなに難しいのか、たくさんの人が売るのを避けている。いや。まさか、全然難しくない。許されていることも いっぱいある。許されている行動も十分楽しい。やってはいけない行動をとる必要がない。本当は礼拝なども少なくて簡単なのである。
アッラーの兵士になることは何よりも光栄なことである。仕事は兵士のようにアッラーの名において、アッラーのために行い…もらう時もあげる時もアッラーのために…許されている範囲で行動し、幸せを得て…失敗したら許しを願うべきである。
アッラーよ。我々をお許しを。
アッラーの兵士にしてくれますよう。
信託を返す時まで、ちゃんと守れるよう力を”と祈るべきである。
[1] 聖クルアーンイブラーヒム章14:25 より
[2] 聖クルアーン集合章 (アル・ハシュル)59:21より
[3] 種が頭の上に木を生産していることを言及している。
[4]ぶどうのような壊れやすい枝のあるきは、重たい実をもつために他の木に巻いて上がることを意味している。
[5]果物の種を意味している。果物の種は素晴らしくて黄地のような発破そしてきれいな色のある華、そしていろいろな味のあるおいしい果物を我々にくれる。
[6]分子(要素)から動物ができることを意味している。
[7]動物や人間を言及している。動物はこの世界の索引のようなもので、人間はこの宇宙の実例のようなものである。
[8]実を作る木を意味しています。たくさん工場を細い枝に持っているように発破や実を素晴らしく実て飾って我々に贈る。
[9]穀物や蚊の卵を言及している。例えば、蚊は木の発破の上に卵を置いておく。その木は発破を蚊の卵のためにえさにする。
[10]育たれている木の索引を含んでいる果物の種及び動物や人間の精子を言及している。
[11]春と夏に地球の活発的な動きを言及している。何百万もの創造物は他の中に過失か欠陥なしで存在に来る、または、変更される
[12]全ての動物のえさを供給する植物を言及している。
[13] この世を明るくしている太陽を言及している。
[14]木の細い枝やおいしい果物を言及している。
[15]動物や人間の母のおっぱいのこと。
[16]空気や水や光、土などどの生物にも不可欠で、常に出入る様子のこと。
[17]缶詰の小箱はメロンやすいかや、ザクロのような果物を言及している。
[18]十五日間は成人年齢に達するための年間の言及している。
[19]食卓は地球の全面にごちそうになる何百種類もの植物のことを言及している。
[20]船は歴史、半島は預言者の時代のことを言及している。
[21]脚 注:この論文が書かれた理由は非常に攻撃的でふさわしくない方法で信仰真理が弱められ、自分の理解力が及ばないことを迷信だと言い、無神論が自然と結びつ き、クルアーンを攻撃するからである。その攻撃は心に厳しい怒りを与えたため、無信仰で真実を忘れたもの達は厳しく戒められた
[22]聖クルアーン、 イブラーヒーム章14:10 より
[23] アッラーとのその関係が存在するとき、種は、本当にアッラーから命令を受け取って、すばらしい義務を果たす
[24] クルアーン イブラーヒーム章14:10より
[25]聖クルアーン、ルクマーン章31:28より
[26]聖クルアーン、蜜蜂章16:77より
[27]聖クルアーン、蜜蜂章16:77より
[28]聖クルアーン、ルクマーン章31:28より
[29] お祈りのことば
[30]聖クルアーン、雌牛章 (アル・バカラ)2:32より
[31] お祈りのことば
[32] お祈りのことば
[33]聖クルアーン2:60より 「またムーサーがその民のために,水を求めて祈った時を思い起せ。われは,「あなたの杖で岩を打て。」と言った。するとそこから,12の泉が涌き出て,各支族は,自分の水場を知った。「アッラーから授かった糧を,食べ且つ飲みなさい。堕落して,地上で悪を行ってはならない。」
[34]聖クルアーン21:69より (ネムルード王がイブラーヒーム預言者を火に投げようとした時)われは命令した。「火よ,冷たくなれ。イブラーヒームの上に平安あれ。」
[35]聖クルアーン雌牛章 (アル・バカラ)2:3より
[36] お祈りのことば
[37]聖クルアーン雌牛章 (アル・バカラ)2:21より
[38] イスラームの根本的なことば
[39] ハディース‐預言者ムハメド(彼の上に平和と平安があれ)のことば。Tirmizi Iman 8。
[40]聖クルアーン16:128より
[41]聖クルアーン9:111より
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